川本ちょっとメモ

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<沖縄戦下の県立第一中学校>(3)座間味・渡嘉敷で集団自決 合同卒業式 鉄血勤皇隊入隊 チービシ砲撃

2018-06-14 21:06:10 | Weblog

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2018/06/14
<沖縄戦下の県立第一中学校>(3)座間味・渡嘉敷で集団自決 合同卒業式 鉄血勤皇隊入隊 チービシ砲撃
2018/06/15
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6月23日は沖縄慰霊の日。沖縄戦は「15年戦争」(別名「太平洋戦争」「大東亜戦争」)の末期、1945(昭20)年3月下旬~6月下旬にかけて戦われました。

当時の中学校生徒や高等女学校生徒、師範学校生徒、農林・水産・商業学校生徒らは鉄血勤皇隊という隊名で、教師らとともに学校単位で沖縄守備の第32軍に動員されました。もちろん親や家庭と離れて暮らします。高女学徒隊としてよく知られているのはひめゆり隊です。

ここで取り上げる沖縄県立第一中学校の淵源は、琉球国王尚温が1798(寛政10)年に開いた琉球最高学府「公学校所」です。その後琉球処分(琉球王国併合の過程)――1872(明治5)年琉球藩設置、1879(明治12)年沖縄県設置――を経て、1880(明治13)年に明治学制下の首里中学となり、1911(明44)年に沖縄県立第一中学校と改称しました。

中学校は男子校5年制です。当時の中1~中5は今の中1~高2に相当します。前回につづいて『[証言・沖縄戦] 沖縄一中鉄血勤皇隊の記録(上)』兼城 一・編著、高文研・刊という本から、沖縄第一中学の沖縄戦をアトランダムに紹介します。本書発行時に存命とみられる方について、すなわち証言者氏名について、ここではイニシャル表記にしました。

3月28日に一中鉄血勤皇隊が編成され、3年生~5年生、220名が同時に第5砲兵司令部(=球9700部隊)配属になりました。2年生115名は電信32連隊の第4、第5、第6、固定の4個中隊に配属されました。2年生~5年生でも、病弱その他の理由で編成除外されたり、直接に他部隊に志願入隊した生徒がいます。1年生は全員、戦時編成除外。

このシリーズに出てくる「球部隊」とは第32軍直属部隊、独立混成第44旅団、独立混成第45旅団、独立混成第46旅団の傘下諸部隊で、本土各地の部隊から成っています。「石部隊」とは第62師団、歩兵第63旅団、歩兵第64旅団の傘下諸部隊です。第62師団は1944(昭19)年8月に北支から沖縄に転属してきました。首里・本島中部守備任務。「山部隊」とは第24師団傘下諸部隊で、1944(昭19)年8月に満州から沖縄に転属してきました。本島南部守備任務。

   ◇    ◇    ◇


米軍、慶良間諸島全島を占領 3月26日~29日 -P41-
 米艦船1200隻が沖縄本島を取り巻いた。米進攻軍は那覇西方20キロ~40キロの海上に散在する慶良間諸島の阿嘉島に3月26日午前8時4分に上陸を開始、つづいて慶留間げるま島、外地そとじ島、座間味島などに上陸した。翌27日、渡嘉敷島にも上陸し、29日の夕刻までには慶良間諸島の全島が米軍に占領された。

座間味島や渡嘉敷島で集団自決 3月26日~29日 -P41-
 島の住民は捕虜になることの恐怖感や食糧難から絶望状態におちいり、家族同士でカミソリや鎌で殺しあい、あるいは日本軍から渡された手榴弾で家族ごと爆死するなど、およそ700人の人たちが集団自決を遂げた。一中2年生の大城英治も、渡嘉敷島の集団自決に加わっていた。

証言 T・S(4年生) 3月26日 -P43-
 池原善清、宇久村精秀、仲吉朝元、真喜志康栄(いずれも4年生、4名とも戦没)らと誘いあって山川入り口まで行き、沖縄本島と慶良間諸島とのあいだに整然とならんでいる噂の米艦隊をはじめて見た。

 そのあと、反対側の中城なかぐすく湾の様子を見に弁が岳まで足をのばした。琉球王朝時代に、のろし台があったと伝えられる火立てぃ毛もうにのぼって湾を見下ろした。太平洋側にも無数の艦船群が浮かんでいるではないか。沖縄は完全に包囲されていた。

4年・5年合同卒業式 3月27日 -P46-
 3月27日夜、沖縄県立第一中学校の4年生と5年生の合同卒業式が養秀寮裏の空き地で挙行された。この年、1945(昭20)年から全国の中学校は5年修業年限が1年短縮になり、4年制になった。灯が外にもれるのを防ぐため、何かでかこんだローソクの明かりの周りに、およそ200名の生徒が集まった。空はどんよりとして湿っぽい風が吹いていた。

証言 S・M 3月27日 合同卒業式 -P46-
 午後8時ごろに始まった卒業式に父兄の姿はなかった。わずかに来賓として、中城ぐすくうどぅんを宿舎にしていた島田叡知事と、養秀寮を宿舎にしていた軍参謀・木村正治中佐が出席した。

 卒業生代表として宮城辰夫(5年生、戦没)が答辞を読んだ。卒業式に例年歌われる「仰げば尊し わが師の恩」の代わりに「海行かば水漬く屍みづくかばね 草生す屍くさむすかばね」の歌で式を終わった。

証言 N・K 3月27日 合同卒業式 -P48-
 宜野湾村上原の自宅で家族面会をすませて、帰路についた。卒業式に間に合うように、ひたすら夜の宜野湾街道を急ぐ。国頭くにがみ方面に避難する人たちが続々とやってくるが、首里方面に行くのは、砲をひっぱった牽引車や輜重車しちょうしゃをともなって島尻に移動する軍の隊列ばかりで、民間人の姿はほとんどなかった。

 西原入り口付近で、同期のO・Y弟の3年生O・Tとすれちがった。学校の用事で金武村に行くと言った。養秀寮に着いた時、卒業式は終わりかけていた。

証言 O・T 3月27日 -P48-
 仲本先輩とわかれて2時間ほどのちに、普天間の松並木のところで宮城吉良(3年生、4月12日養秀寮で被弾し死亡)と出会った。最後の家族面会を終えて、泡瀬から学校にもどるところだった。

 金武きんに着いて家族に会い、必要な用事をすませて帰校しようとした矢先、米軍が上陸したので家族ごと金武宮の洞窟に隠れた。この鍾乳洞には那覇方面の避難民が何百人も入っていた。

証言 K・T 3月27日 -P49-
 卒業式が終わったころから雨が降り、やがて土砂降りになった。深夜になって第5砲兵司令部から「タマウドゥン(玉陵)敷地に野積みしてあるガソリン入りドラム缶の疎開のため、ただちに使役を出せ」との最初の命令がきた。トラック10台分ぐらいの量があった。指揮者の伍長殿が「ドラム缶の疎開は夜明けまでに完了せよ。グラマンが飛ぶようになったらうるさいから、がんばってもらうぞ」とハッパをかけた。

証言 T・Y 3月27日 -P50-
 卒業式が終わるとただちに軍務につくことになった。与えられた任務は、玉陵周辺に分散してあるガソリン入りドラム缶をトラックで運び、崎山町の南側斜面にある岩陰に隠蔽格納する作業である。作業を始めたころから豪雨になって道路が泥沼になり、トラックが動けなくなった。そこで6人全員がトラックの荷台に肩を入れ担ぎはじめたところ、少し動いた。トラックをかついでは押し、押してはかつぐといった6人の苦闘は、寒川町の下から目的地の下から目的地の崎山町の岩陰まで延々数百メートルもつづいた。終わった時は、東の空が明るくなっていた。

一中鉄血勤皇隊入隊 3月28日 -P53-
 養秀寮に集まった一中生徒およそ220名と教職員が鉄血勤皇隊に入隊。篠原配属将校の指示に従って小隊を編成したが、意外なことに相当数の生徒が編成から外され、帰宅を命じられた。

 一中鉄血勤皇隊は球9700部隊に編入され、渡辺見習士官を長として山本軍曹ら下士官兵8名の教導班が派遣されてきた。彼らが一中隊員の訓練と指導に当たる。

証言 N・M 3月28日 -P54-
 具志堅政雄高江洲たかえす(両名とも4年生、戦没)がやってきて、「明朝、寮に集合せよ」との緊急連絡をしてくれた。朝早く寮に出かけたが、篠原配属将校に帰宅を命じられた。帰宅させられた者は体の小さい連中が多かった。数日後に識名しきな盛武(戦没)が、さっそうたる軍服姿で隣の壕にいる家族に面会に来た時は、鉄血勤皇隊に入隊ができなかったのがきまり悪くて、顔をあわさないように奥に引っ込んでいた。

証言 A・Y 3月29日 -P55-
 一日遅れて城間隆、久場くば政良、富名越ふなこし英一(いずれも3年生、3人とも島尻で戦没)らと登校したところ「昨日で入隊申し込みは終わった」という理由で帰宅を命じられた。翌日、城間隆の家に集まり、志願書に連署血判して篠原配属将校に提出、入隊を懇願してようやく許可された。

証言 N・M(旧姓・玉那覇5年生) 3月29日 -P55-
 西原村の2年生に召集令状を届けて帰校したところ、篠原教官に「入隊はもう終わった」と帰宅を命じられた。家族は疎開して家には誰もいない事情を知っていた桃原(とうばる)良謙教諭が、入隊できるように骨を折ったが駄目だった。南風原はえばる陸軍病院で看護婦として働いていた姉N・Y(ひめゆり学徒、沖縄師範本科2年)の世話で、陸軍病院軍属として採用された。7月下旬、姉とともに伊原の第3外科壕に移った。8月23日、姉とともに、米軍の勧告に従って兵隊や民間人といっしょに投降した。

軍装品支給 3月29日 -P65-
 養秀寮庭に整列した鉄血勤皇隊員(5年、4年、3年生の約220名)は、二等兵の襟章のついた軍服上下と軍帽、帯革、軍靴、飯盒、毛布などを支給された。一中教職員は軍属扱いになり、藤野校長は佐官待遇、野崎教頭は尉官待遇で軍属の階級章を渡された。

米軍のチービシ砲撃始まる 3月31日
 米軍は沖縄本島への上陸に先立ち、那覇西方約10キロの海上に浮かぶ無人の神山島(俗称チービシ)に、155ミリカノン砲16門を据え付けた。以後、昼夜の別なく那覇・首里方面への砲撃をつづけた。人々はこれをチービシ砲と呼んで恐れた。

上級学校合格者発表 3月31日 -P74-
 沖縄県庁内政部にもうけられた選考機関が、出身学校長の内申書にもとづいて第一次、第二次選考をおこない、首里高等女学校グラウンドの県庁壕で3月31日、昭和20年度上級学校合格者を発表した。この年は筆記試験を行わなかった。

証言 H・M(4年生) 3月31日 -P76-
 上級学校受験の結果は井口亀英先生から直接聞いた。藤野憲夫校長から「H君、上級学校合格おめでとう」と言われたが、試験も受けていないのに合格したと言われ、ピンとこなかった。

 校長は「一中から広島高等師範に一人、東京高等師範に5年生が一人合格した。君は広島高等師範に合格した」と言われた。壕のなかで仲間同士、だれそれはどこそこに合格したと話し合った。N・Eも七高に合格し、S・Mも五高に合格していた。 ※五高…旧制第五高等学校(熊本)、七高…旧制第七高等学校(鹿児島)





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