川本ちょっとメモ

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<沖縄戦下の県立第一中学校>(5)炊事班 壕堀り生活 対戦車爆雷訓練 大詔奉戴日 養秀寮炎上 独歩第13大隊戦力1/3に低下

2018-06-17 21:53:47 | Weblog

6月23日は沖縄慰霊の日。沖縄戦は「15年戦争」(別名「太平洋戦争」「大東亜戦争」)の末期、1945(昭20)年3月下旬~6月下旬にかけて戦われました。

当時の中学校生徒や高等女学校生徒、師範学校生徒、農林・水産・商業学校生徒らは鉄血勤皇隊という隊名で、教師らとともに学校単位で沖縄守備の第32軍に動員されました。もちろん親や家庭と離れて暮らします。高女学徒隊としてよく知られているのはひめゆり隊です。

ここで取り上げる沖縄県立第一中学校の淵源は、琉球国王尚温が1798(寛政10)年に開いた琉球最高学府「公学校所」です。その後琉球処分(琉球王国併合の過程)――1872(明治5)年琉球藩設置、1879(明治12)年沖縄県設置――を経て、1880(明治13)年に明治学制下の首里中学となり、1911(明44)年に沖縄県立第一中学校と改称しました。

中学校は男子校5年制です。当時の中1~中5は今の中1~高2に相当します。前回につづいて『[証言・沖縄戦] 沖縄一中鉄血勤皇隊の記録(上)』兼城 一・編著、高文研・刊という本から、沖縄第一中学の沖縄戦をアトランダムに紹介します。本書発行時に存命とみられる方について、すなわち証言者氏名について、ここではイニシャル表記にしました。

3月28日に一中鉄血勤皇隊が編成され、3年生~5年生、220名が同時に第5砲兵司令部(=球9700部隊)配属になりました。2年生115名は電信32連隊の第4、第5、第6、固定の4個中隊に配属されました。2年生~5年生でも、病弱その他の理由で編成除外されたり、直接に他部隊に志願入隊した生徒がいます。1年生は全員、戦時編成除外。

このシリーズに出てくる「球部隊」とは第32軍直属部隊、独立混成第44旅団、独立混成第45旅団、独立混成第46旅団の傘下諸部隊で、本土各地の部隊から成っています。「石部隊」とは第62師団、歩兵第63旅団、歩兵第64旅団の傘下諸部隊です。第62師団は1944(昭19)年8月に北支から沖縄に転属してきました。首里・本島中部守備任務。「山部隊」とは第24師団傘下諸部隊で、1944(昭19)年8月に満州から沖縄に転属してきました。本島南部守備任務。

   ◇    ◇    ◇


米国軍政始まる 4月5日 -P102-
 米軍は4月5日に読谷村に海軍軍政府をもうけ、米太平洋艦隊司令長官ニミッツ元帥の名において、占領下にある南西諸島の日本の行政権・司法権の停止、住民の保護・管理の開始を宣言した米国海軍軍政府布告第1号(いわゆるニミッツ布告)を公布し、ただちに軍政をしいた。この日から1972年までの27年間におよぶ米国の沖縄統治が始まった。

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証言 I・H 教導兵のしごき 4月上旬 -P105-
 飯上げは、各小隊の当番が炊事場に取りにくるのがしきたりだった。われわれ炊事班は、教導兵(※新兵教育係)も飯上げにくるものと思っていたし、ある時期までは実際に取りに来ていた。ところが、ある日、教導兵が突然、飯上げにこなくなった。不審に思ったが、事情をがわからないまま放っておいたところ、森伍長がやってきて「上官の食事はちゃんと運ぶものだ」とどなり、炊事班員を整列させて二人ずつ向かいあって対抗ビンタをさせた。炊事班員たちはあごが腫れるぐらい互いになぐりあった。

証言 O・I 教導兵のしごき 4月上旬 -P106-
 腹痛をおこし壕内で休んでいたところ、森伍長がやってきて「腹痛をなおしてやろう。歯をくいしばれ」と言い、3回ぐらい頬をひっぱたいた。「どうだ、なおったか」と言うので「なおりません」と答えたら、また4回ぐらい往復ビンタをくった。「これでなおったろう」と言うので、これ以上なぐられるとたまらんと思い、「はいっ、なおりました」と答えると、ビンタは止んだ。

証言 T・Y 教導兵のしごき 4月上旬 -P107-
 森伍長は「男らしさ」をよく説いた。ぼくが員数外の雑のうを持ていることを森伍長に告げ口した者がいた。すると「お前は男らしくない奴だ。ここは戦場ではないか。それを告げ口するとは何事だ。戦友はかばいあうものだ、ということを覚えておけ」と言って叱りつけた。ぼくには何のおとがめもなかった。

証言 N・K 戦場生活 4月上旬 -P115-
 沖縄戦を通じて朝と夕方、きまって1時間ぐらいずつ米軍の砲撃が弱まる時間帯があった。これは米軍の食事時間、兵員の交代時間などと言われていたが、日本軍とくらべて余裕しゃくしゃくたる戦闘ぶりであった。

 わが方は、この時間帯になると壕からぞろぞろ出てきて炊事、水汲みや食糧探し、排便など、もろもろの用事を短時間にすまさなければならなかった。

証言 N・K 食べる 4月上旬 -P116-
 壕を掘る作業などの使役に出たときの昼食は、飯盒にはいった玄米に中ぶたいっぱいのカンダバー(甘藷の葉)の味噌汁がつくだけだった。こま切れ芋のまじった飯だが、芋はヒームサー(虫食い芋)が多く、噛むと苦みが走った。腹が減っているので食うしかなかったが、いま考えると、よく食ったものだと思う。

証言 I・H 炊事班 4月上旬 -P116-
 炊事班の重要な仕事の一つに、食糧確保のための芋ほり作業があった。ある日の夕方、多和田教諭にひきいられて数名の生徒といっしょに芋ほりに行った。芋ほりをしている最中に迫撃砲弾が集中落下した。身を隠すもののない芋畑の中。隊員たちはわれがちに近くの壕に逃げこんだ。芋ほり作業はほんとうに命がけだった。

証言 O・S (5年生) 炊事班 4月上旬 -P120-
 T・Y、M・S、K・T、M・Tらと那覇久茂地くもじの民家に食糧探しに行った。無人になった民家の台所から、食糧の足しになるものが見つかることがあって、白昼堂々とあさり歩いた。その日は松尾の山形屋の寮から、幸運にも一袋のぜんざいのざいりょうを発見した。喜び勇んで一中壕に持ち帰り、炊事班におさめた。

証言 S・T 炊事班 4月上旬 -P120-
 芋ほり作業の合間に食糧運搬などもした。金城町の下の糧秣集積所から養秀寮に米俵を運んでいるとき、チービシの米軍長距離砲の破片で右肩に軽傷を負った。一中鉄血勤皇隊の負傷第1号だった。玉陵裏の医務室壕に毎日通って治療を受けた。医務室には軍医大尉と3人の看護婦がいた。負傷第1号のせいか大切に扱われ、治療が終わると飴玉や栄養剤をくれた。

 ※チービシ砲とは……米軍は沖縄本島への上陸に先立ち、那覇西方約10キロの海上に浮かぶ無人の神山島(俗称チービシ)に、155ミリカノン砲16門を据え付けた。以後、昼夜の別なく那覇・首里方面への砲撃をつづけて威力を発揮した。

証言 A・Y 炊事班 4月上旬 -P121-
 鉄血勤皇隊の副食用野菜類は、繁多川や松川あたりの畑から徴発していた。肉類や調味料は自己調達しなければならなかった。塩は池端町にある専売局の倉庫から相当の量を運びこみ、心配はなかった。味噌、醤油は大中町で醸造業を営んでいる玉那覇有成の家から供給してもらった。

証言 K・T 炊事班 4月上旬 -P121-
 玉那覇家の屋敷には、味噌貯蔵庫に利用している広く堅固な洞窟があり、戦争が始まってからは避難壕としても使っていた。味噌運搬に行った隊員たちは、この洞窟で銀飯と熱い味噌汁をいただいた。久しぶりにありつく御馳走だった。その玉那覇有成は5月13日、記念運動場裏で衛兵勤務中、チービシからの直撃弾で即死した。

証言 H・M 噂では軍参謀の妾 4月上旬 -P124-
 養秀寮の近くには、軍参謀の妾だと噂される女性が3人ほどいて、それぞれ民家を借りて住んでいた。はたちを過ぎたばかりの女性だったが。はでな衣服と色白の顔で辻遊郭の人だということはわれわれにもわかった。

 参謀ともなれば戦争中でも妾をかこうことができるのだ、とぼくらは複雑な気持ちで彼女らを見ていた。ある日、その一人が坂道の水運びにへたばっているのを見て、手助した。別れ際に彼女は顔をほころばせて礼を言い、頭をさげた。

2か月後の再会
 H・Mはそれから2か月後に彼女と再会した。彼は5月4日、無煙炊事場で負傷して、南風原はえばる陸軍病院で左腕切断。守備軍が首里主陣地帯から撤退するときに病院壕に置き去りになった。

 独力で病院壕から脱出して島尻を彷徨していたとき、彼女と再会した。励ましの言葉をかけられ、別れるときに海軍用の乾パンを一袋もらった。この乾パンが彼の生命を何日間かささえた、という。H・Mは戦後、隻腕ながら米国留学を経て琉球大学の教員になった。

連日、陣地構築に動員 4月上旬 -P126-
 鉄血勤皇隊員は連日、軍司令部や第5砲兵司令部の陣地構築に動員された。首里第二国民学校の校庭から軍司令部壕に通ずる第一坑道の貫通作業や、記念運動場脇の地上に出る第五砲兵司令部の「空気あな」掘削作業は、生命の危険をともなう難工事だった。

証言 S・K 壕堀り作業 4月上旬 -P126-
 いつものように私たち数名のグループは壕堀り作業に行くために、艦砲がヒューヒューと飛ぶなかを一団となって走っていた。守礼の門の近くに来たとき、いきなりヒュッと短い音がしたので、がばっと地面に伏せた。同時にブスッという音がした。頭をあげて見ると、4、5メートル斜め前方に落ちたばかりの砲弾から、煙がかすかに上がっていた。不発弾である。これがまともに爆発していたら、私たちは一瞬のうちに吹きとばされていたかと思うと、ぞっとした。こういう場面に何回となくぶつかった。

砲弾音…ヒュルヒュルは安心、ヒュッは近い、至近弾・命中弾は音なくいきなり炸裂 -P147-
 戦場では飛んでくる砲弾の音は、弾着の遠近をはかる重要な尺度だった。沖縄戦体験者の証言によれば、ヒュルヒュルという音をたてて飛んでいく砲弾は遠くへ飛んでいく。日中ならばそういう砲弾は、一直線に飛んでいくのが肉眼で見えた。夜間ならば、火の玉のように軌跡を描いて飛んでいくのがはっきり見えた、という。

 10メートルぐらい離れたところに落ちる砲弾は、短い音がヒュッと聞こえたとたんに炸裂した。体を伏せる時間の余裕はほとんどなかった。飛び散る破片でやられる場合もあるが、たいていは無傷だった。もっと近くに落ちる砲弾は、音もなくいきなり炸裂した。運よく死を免れても、たいていは破片で負傷した。無傷の場合でも爆風で耳をやられしばらく音が聞こえなくなった。

証言 S・K 壕堀り作業 4月上旬 -P127-
 軍司令部壕への空気あな貫通作業は難工事だった。壕のなかでローソクの明かりが次第に細くなって消えかかると、「酸欠だみんな外に出ろ」という号令がかかり、作業員は工具を放りだしていっせいに外に出た。

証言 S・T 壕堀り作業 4月上旬 -P131-
 鉄血勤皇隊の作業隊が司令部壕の入り口で作業しているところに、奥から和田中将が幕僚を従えてやってきた。和田中将はぼくのところに寄ってきて「やあ、君、元気でやっているな」と言うなり、両肩に手をかけて前後に軽くゆすりながら、がんばれよ、といったふうに親愛の情を示した。年格好や顔つきから一中学徒兵だしてということがわかったにちがいない。声をかけられたばかりか肩までゆすられたぼくは、体がかーっと熱くなるほど感激して「この閣下といっしょなら死ぬまでたたかうぞ」という気になった。

証言 K・Y 壕堀り作業 4月上旬 -P132-
 記念運動場の垂坑道の掘削作業中、酸欠で複数の兵隊が死んだ。これまで元気で作業していた兵隊があっけなく死んでしまったことに、酸欠の恐ろしさを思い知らされた。

対戦車爆雷訓練 4月上旬 -P133-
 鉄血勤皇隊員は、壕堀り作業の合間に、綾門通りのワイトゥイ(切り通し)入り口付近や養秀寮庭で、教導兵から対戦車攻撃の訓練を受けた。M・Sのほか、S・T、A・Y、M・Aも訓練を受けた。教導兵は「やりそこなったら、爆雷もろともキャタピラの下に身を投げ出せ」と教えていた。

証言 M・S 対戦車爆雷訓練 4月上旬 -P133-
 訓練はまず道路脇に自分のタコつぼを掘ることから始まった。タコつぼができあがると、爆雷を両手で抱いた格好で中にしゃがみこみ、敵の戦車が来るのをじっと待ち受けることになる。戦車をじゅうぶんに引きつけ、戦車が目の前に来たときにさっと飛び出して、爆雷をキャタピラの下に投げつけられてなければならない。それから元のタコつぼに退避することになるが、この動作を3秒以内で完了するという訓練だった。

 爆雷を投げてタコつぼにもどるまでには、どうやっても3秒以上はかかる。そこでぼくは「この方法では間に合わず、自分の爆雷で死ぬことになるんじゃないですか」と質問したら、教導兵は動ずることなく「間に合う者もいるし、間に合わない者もいる。だから間に合うように訓練するのだ」と答えた。

 「行動が早すぎると機関銃でやられるから、ぎりぎりまで動いてはいかん。飛び出すのは戦車の死角になってからだ。しかも爆雷の位置がキャタピラの真ん中にくるように仕掛けなければならない」とも言った。大事なポイントはタコつぼから飛び出すタイミングだが、ぼくらは敵の戦車を実際に見たこともなく、戦車の速度も知らない。ぼくは訓練を受けながら「戦車が来たら、それこそお陀仏だな」と思った。

大詔奉戴日たいしょうほうたいび 4月8日 -P137-
 大詔奉戴日。球9700部隊から菊の紋章入りの煙草と菓子(落雁)が支給された。「煙草は戦勝記念のおみやげにせよ」と言われた。

 大詔奉戴日は太平洋戦争開戦後、12月8日の対米英蘭宣戦布告日にちなんで、毎月8日を戦意高揚の日として制定された。各学校では朝礼で、校長が大東亜戦争完遂のための精神訓話をおこなった。必勝祈願のための神社参拝や境内の清掃作業をする学校もあった。

証言 M・S(3年生) 大詔奉戴日 -P138-
 恩賜の菓子は各人にゆきわあるほどの数がなかったので、炊事班はこの落雁でぜんざいをこしらえてくれた。炊事班から甘いものが出たのは、後にも先にもこのときだけだった。

養秀寮被弾炎上、死者3、重傷1、負傷2 4月12日夜 -P146-
 首里では砲弾がひっきりなしに飛んでいる状況になっていた。夜9時、養秀寮がとうとう被弾して炎上した。一中鉄血勤皇隊の炊事施設が焼失した。

証言 A・Y 養秀寮炎上 4月12日夜 -P148-
 午後9時ごろ、寮の敷地に数発の弾がたてつづけに落下した。「やられた」という悲鳴があがり、外は騒然となった。炊事場から飛び出してみると、生徒がひとり血だらけになって倒れていた。3年生の宮城吉良である。すぐに病院壕にかつぎこんだが、したたり落ちる血でぼくの軍服はびしょぬれになった。

証言 M・A 養秀寮炎上 4月12日夜 -P148-
 「輸血だ、AB型血液の者はすぐ集まれ」という声が飛んだ。宮城吉良はAB型だった。AB型のぼくは出ていって採血した。ほかにも何人かが名乗り出た。N・Nも左足に負傷し、病院壕に運ばれた。

証言 T・K 養秀寮炎上 4月12日夜 -P149-
 宮城吉良は首の付け根をえぐられ、一目で重傷とわかった。まぶたを開けたまま宙を見つめているといった状態で、二日ぐらい生きていた。

証言 I・H 養秀寮炎上 4月12日夜 -P149-
 宮城吉良、N・N、S・Sらは炊事班員ではなく、寮庭で隊の仕事をしていたところをやられた。

証言 N・K 養秀寮炎上 4月13日明け方 -P149-
 明け方、篠原教官にひきいられてK・T、O・Sらとともに煙がくすぶっている寮の焼け跡をさがした。教官はさすがにブーゲンビルでの実践の体験者だけに、瓦礫のなかから真っ先に池原吉清と佐久川寛弁の焼死体を発見した。口中を調べてこの二人だとわかった。

証言 N・Y子 養秀寮炎上 4月13日以後医務室壕 -P150-
 左足をけがした息子N夫はさいわいにも骨に異常はなかった。医務室壕にたまに顔を出す私を見ると、空腹を訴えて「お母さん、家に帰りたい」といって泣いた。友人のS・Tさんが桃原とうばる農園から食べ物を持ってきて食べさせてくれた。

炊事場再建――再び砲弾直撃 -P153-
 新しい炊事場は3日ほどで完成した。艦砲やチービシ砲を避けるために炊煙が目立たないよう工夫されて、無煙炊事場と呼んだ。無煙炊事場は南斜面ありチービシ砲の方向に面していた。安里洋太郎は再びチービシ砲にやられることを心配したが、この心配は当たった。

 5月4日の夕方、無煙炊事場はチービシ砲の直撃を受けた。仲泊良兼(3年生)、即死。安里洋太郎の弟・清次郎、腹部をやられてまもなく死亡。H・Mは重傷のため陸軍病院で左腕切断。

 ※チービシ砲とは……米軍は沖縄本島への上陸に先立ち、那覇西方約10キロの海上に浮かぶ無人の神山島(俗称チービシ)に、155ミリカノン砲16門を据え付けた。以後、昼夜の別なく那覇・首里方面への砲撃をつづけて威力を発揮した。

証言 A・Y 鉄血勤皇隊脱走 4月13日 -P153-
 仲のよかった池原善清と佐久川寛弁は戦死し、篠原教官には事あるごとに怒られるので、鉄血勤皇隊にいるより前線に行ったほうがいいと考え、脱走することにした。とりあえず自宅のある宜野湾村嘉数かかずに行くことに決め、暗くなってから誰にも告げずに一中壕を抜けだした。

A・Yは前線の独立歩兵第13大隊吉田中隊に志願入隊 4月14日 -P154-
 首里から約6km離れた嘉数かかずに布陣している石部隊の関谷准尉がA・Yの家の近くの民家を宿舎にしていて、互いに熟知の間柄だった。A・Yが独立歩兵第13大隊吉田中隊に志願入隊したころ、第13大隊は、嘉数高地を突破して首里に南下しようとする米陸軍第96師団主力と激戦をくり返していた。

証言 A・Y 独立歩兵第13大隊は戦力が1/3に低下-P154-
 志願入隊した独立歩兵第13大隊の壕は頑丈にできていた。迫撃穂の弾ぐらいなら何発くってもびくともしなかったが、壕のなかは連日の接近戦でやられた死傷者がごろごろしていた。

 浦添うらそえ城跡にある観測所に兵隊のお供をして伝令に行ったことがあった。観測所から大謝名おおじゃな、牧港まきみなと方面を眼下に見下ろせた。ブルドーザーで道幅をぐんと広げられた県道を、GMCトラックや兵員輸送車が何台も疾走し、上半身裸の米兵たちが悠々と歩いていた。

 そのころ一中野球部投手だった上原景真(56期生)、気さくな性格で下級生に人気のあった小橋川正夫(56期生)の二人の先輩と壕外で出くわした。石部隊の現役兵だった。ぼくを見て「良美、どうしてここにいるのだ」と聞いたので「志願して独歩13に入った」と答えた。別れ際に「良美、死ぬなよ」といって去って行ったが、二人とも戦没したことを後に知った。

 ぼくが嘉数にいたのは1週間ぐらいである。兵力、火力が圧倒的に優勢な敵と日夜死闘をまじえた独立歩兵第13大隊は3分の1程度の戦力に低下したため、師団長命令で独立歩兵第23大隊と交替し、4月19日夜半、2km後方の浦添村前田に後退した。

(注)嘉数戦線に関わった歩兵大隊や連隊はほかに幾つもあった。砲兵隊も加わっている。従って「戦力が1/3に低下」とは、それらの平均値ではないかと思われる。なぜなら、独立歩兵第13大隊について元宜野湾市助役・松川正義さんが次のように話している(『沖縄・八十四日の戦い』から)。

松川正義さんの証言 1944(昭19)年10月、現役志願で独立歩兵第13大隊に入隊した。われわれの大隊は1200人ぐらいだと思うが、4月下旬、嘉数を後退するときに100人いたかどうかわからない。
 4月19日未明、私は歩哨に立っていた。陣地は馬乗り攻撃(火炎放射器などで陣地や壕に隠れている日本兵を焼殺したり窒息死させる)を受けたが、私はタコツボに飛びこんで無事だった。午後3時、再び歩哨に立った。相方の古年兵が後方に立っていたが、迫撃砲の直撃弾で戦死した。その夜、命令があって斬りこみ隊に出た。150メートルほど前進したところで右足に迫撃砲の直撃を受けた。大きな石をぶつけられた感じで右ひざをなでるとそれは太ももだった。30分ほどして、衛生兵がぶらぶらになった足を短剣で切り捨てて助けてくれた。

※首里防衛戦はどこも激戦だった。そのなかでも4月19日嘉数最前線は、攻勢に出た米軍戦車隊30両のうち22両が擱座したほどの激戦の日でした。


 大隊が前田に後退するときに、吉田中隊長はぼくを呼んで、「われわれは前田でひとふんばりして最期を遂げることになろう。中学生の君は軍人のわれわれといっしょに死ぬことはない。後方に下がれ」と命じた。自分も前田に連れて行ってほしいと同行を願ったが、吉田中隊長は「俺の命令が聞けないのか」と軍刀を抜き、いまにも斬りつけんばかりに「さあ、行け」とうながしたので、一足先にさがることにした。



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