2018/06/10
<沖縄戦下の県立第一中学校>(1)第一中学校奉安殿の昭和天皇皇后御真影(肖像写真)を米軍攻撃から退避させる
2018/06/13
<沖縄戦下の県立第一中学校>(2)召集令状伝達 最後の家族面会
2018/06/14
<沖縄戦下の県立第一中学校>(3)座間味・渡嘉敷で集団自決 合同卒業式 鉄血勤皇隊入隊 チービシ砲撃
2018/06/15
<沖縄戦下の県立第一中学校>(4)読谷・嘉手納・北谷海岸 4.1. 米軍無血上陸、内陸に進撃、4.4. 住民200人捕虜になる
2018/06/17
<沖縄戦下の県立第一中学校>(5)炊事班 壕堀り生活 対戦車爆雷訓練 大詔奉戴日 養秀寮炎上 独歩第13大隊戦力1/3に低下
2018/06/20
<沖縄戦下の県立第一中学校> (6) 厳しくなる戦場 小学校教員が殺された 電信連隊の中学2年生にも戦没者が次々と
2018/06/22
<沖縄戦下の県立第一中学校> (7) 前線に向かう連隊 前線へ弾薬を運ぶ住民 陸軍病院壕 総攻撃の敗北 一中生徒の戦没も続く
2018/06/24
<沖縄戦下の県立第一中学校> (8終) 米軍戦死傷増大 首里敗退路のありさま 沖縄一中生徒戦没数と生存数
6月23日は沖縄慰霊の日。沖縄戦は「15年戦争」(別名「太平洋戦争」「大東亜戦争」)の末期、1945(昭20)年3月下旬~6月下旬にかけて戦われました。
当時の中学校生徒や高等女学校生徒、師範学校生徒、農林・水産・商業学校生徒らは鉄血勤皇隊という隊名で、教師らとともに学校単位で沖縄守備の第32軍に動員されました。もちろん親や家庭と離れて暮らします。高女学徒隊としてよく知られているのはひめゆり隊です。
ここで取り上げる沖縄県立第一中学校の淵源は、琉球国王尚温が1798(寛政10)年に開いた琉球最高学府「公学校所」です。その後琉球処分(琉球王国併合の過程)――1872(明治5)年琉球藩設置、1879(明治12)年沖縄県設置――を経て、1880(明治13)年に明治学制下の首里中学となり、1911(明44)年に沖縄県立第一中学校と改称しました。
中学校は男子校5年制です。当時の中1~中5は今の中1~高2に相当します。前回につづいて『[証言・沖縄戦] 沖縄一中鉄血勤皇隊の記録(上)』兼城 一・編著、高文研・刊という本から、沖縄第一中学の沖縄戦をアトランダムに紹介します。本書発行時に存命とみられる方について、すなわち証言者氏名について、ここではイニシャル表記にしました。
3月28日に一中鉄血勤皇隊が編成され、3年生~5年生、220名が同時に第5砲兵司令部(=球9700部隊)配属になりました。2年生115名は電信32連隊の第4、第5、第6、固定の4個中隊に配属されました。2年生~5年生でも、病弱その他の理由で編成除外されたり、直接に他部隊に志願入隊した生徒がいます。1年生は全員、戦時編成除外。
このシリーズに出てくる「球部隊」とは第32軍直属部隊、独立混成第44旅団、独立混成第45旅団、独立混成第46旅団の傘下諸部隊で、本土各地の部隊から成っています。「石部隊」とは第62師団、歩兵第63旅団、歩兵第64旅団の傘下諸部隊です。第62師団は1944(昭19)年8月に北支から沖縄に転属してきました。首里・本島中部守備任務。「山部隊」とは第24師団傘下諸部隊で、1944(昭19)年8月に満州から沖縄に転属してきました。本島南部守備任務。
◇ ◇ ◇
■読谷・嘉手納・北谷海岸 4月1日(晴) 米軍無血上陸、内陸に進撃 -P80-
午前8時30分、米軍は大小各種の艦船1500隻余、航空機延べ600機の支援のもとに読谷よみたん、嘉手納かでな、北谷ちゃたん海岸一帯に上陸開始。その日のうちに米第10軍主力の6万余は、なんの抵抗も受けずに北・中両飛行場を占領した。
米軍は前年の1944(昭19)年10月20日にフィリピンのレイテ島に上陸していた。日本軍は1944(昭19)年12月、沖縄守備第32軍の反対を斥けて、第32軍から精鋭第9師団をフィリピン方面に転出させた。沖縄守備軍はこのために、米軍に無血上陸をさせて内陸で抵抗を長引かせるという作戦へ大きく転換した。 ※「実際4月4日までは日本軍は発砲を禁止されていた」(『沖縄・八十四日の戦い』-P89-)
一方で上陸米軍を撃退する主役として守備軍が期待していた日本航空軍は1機も現れなかった。沖縄防衛の主力を担う第五航空艦隊(鹿児島県鹿屋)は3月18日~20日の九州沖航空戦で攻撃機の8割を喪失していた。米軍の上陸作戦に打撃を与える航空戦力が残っていなかった。
■米従軍記者アーニー・パイル 沖縄上陸報道 4月1日 -P83-
4月1日、水陸両用車に乗って上陸した米従軍記者アーニー・パイルがこの無血上陸を次のように報道している(「那覇市史」資料編)。
「気温は暖かくて春のようだった。日はさんさんと照り輝いていた。風もなく、これ以上の天気があろうかと思われた」
「われわれは上陸作戦開始後1時間半、弾も撃たれず足を濡らすこともなく沖縄にいたのである」
「焼かれた車輛は1台もなかった。また海岸にも破壊されて横倒しになっている船1隻とてなかった。上陸作戦につきものの大量殺りくの場面は見事といっていいほどなかった」
アーニー・パイルは4月18日、伊江島の戦闘で機関銃弾に倒れた。この著名な従軍記者の戦没はアメリカ中に伝えられた。伊江島守備隊の抵抗は激しく、4月16日米軍上陸から4月21日伊江島守備隊全滅までの戦闘は、米軍にとっても損害多大であった。米第307連隊第2大隊では伊江島の戦闘で将校30名が戦死・負傷し、上陸時の大隊将校はほとんど残っていなかった。
■証言 K・N(4年生) 米軍上陸 4月1日 -P87-
学校の推薦で2月初旬、沖縄地方気象台に就職した。沖縄戦がはじまると、陸軍野戦気象隊に属することになり、首里石嶺町の松の高地と呼ばれるところに移った。気象隊の任務は、1時間ごとに気象観測をおこない、軍司令部に定期報告することだった。観測データは特攻機出撃の際の参考にしたと思う。
4月1日、気象隊は本土との交信で敵が上陸したことをいち早く知り、壕にこもっている住民たちに米軍上陸を知らせてやった。石嶺のような奥まったところには、戦況はまったく伝わってこなかった。
■証言 T・F 米軍上陸 4月1日 -P89-
中谷重憲とふたり、久志くし村汀間ていまに疎開しているそれぞれの家族に会いに行った。ふたりは面会を果たして西原に引返す途中、美里村東恩納ひがしおんので敵が嘉手納に上陸したことを知った。
道端の民家の前に数名の憲兵らしい兵隊が立っていて、国頭くにがみに避難する者はどんどん通していたが、国頭から出て行こうとする者は「敵が上陸した、もどれ」といって追い返していた。その兵隊に上衣にに縫いつけてあった一中報国隊の菊水マークを示して、「鉄血勤皇隊にもどる」と頼んだらわけなく通してくれた。
みんな避難してしまったのか人のいない道路を歩きに歩いて、西原村小那覇に着いたのは夜中だった。警防団の人たちが焼けてくすぶっている家屋に水をかけたり、焼け跡の後片付けをしたりしていた。付近に駐屯している砲兵隊があわただしく陣地を整備していた。
T・Fといっしょに家族に会いに行った中谷重憲は予科練に合格し、本土行きの便船を待っているところだった。国頭に家族面会に行ったために鉄血勤皇隊に入隊する機会を失した彼は、戦争に勝った時に非国民といわれることをおそれ、西原村義勇隊に志願した。義勇隊の一員として最後まで行動し、6月上旬に東風平こちんだ村の八重瀬やえせ岳付近で戦没した。
■証言 H・H(4年生) 米軍上陸 4月1日 -P90-
最後の面会をすませて中城なかぐすく村伊舎堂いしゃどうの自宅から学校にもどろうとした時、郵便局長をしていた父に引き止められた。「学校にもどらないと国賊になるからもどる」と言いはる僕に、父は「もう戦争がはじまったのだ。危なくて帰すわけにはいかない。家にいるのだ」と言ってゆずらなかった。それで「国賊は銃殺されますぞ」と言うと、「戦争に参加しなかったからといって中学生を銃殺するというのなら、わしが代わって銃殺されよう」と父が言い切った。
そうしているうちに米軍は上陸した。父が止めるのをふりきって首里に向かったが、行く手に銃爆撃が激しいのを見て首里行きを断念し、中城城跡の郵便局壕にもどった。夜が明けると、敵は北中城に進攻してきた。それからは2家族16人で南へ避難行をつづけた。弾雨の中を逃げつづけたこともあった。6月下旬、日本軍の壊滅後に中城にもどった。
■証言 O・H 米軍上陸 4月1日 -P92-
夕方、大中町の玉那覇有成の家で用事をすませて西森の壕に帰る途中、首里高女前の通りで同期の比嘉常雄がチービシ砲にやれているのにぶつかった。かたわらに常雄の両親がついていた。 ※「米軍のチービシ砲撃始まる 3月31日」の項参照
常雄は制服、制帽にゲートル姿だった。比嘉常雄は鹿児島の第七高等学校の第一次試験に合格していた。戦争が始まったので鉄血勤皇隊に参加するため、浦添うらそえ村西原から両親に付き添われて学校に向かう途上、チービシ砲にやられた。
常雄の父親とともに、遺体をもっこに入れて浦添村西原の家に運んだ。運び終わって首里にもどる時に、常雄のお父さんは「君は命を大切にして、常雄の分まで長生きしてくれよ」と言われた。
■証言 N・T 米兵に遭遇 4月1日 -P92-
米軍上陸北谷ちゃたん海岸正面の山の壕に義父の家族と隠れていたが、家の墓のなかに貯蔵してあった食糧のことが気になり義父と取りに行った。食糧を抱えて墓の入り口から外に出ようとしたとき、そこに米兵が二人立っていた。北谷海岸に上陸した米兵だった。
初めて見る敵兵にびっくりして立ちすくんでいると、近寄ってきた米兵がほほえみを浮かべて煙草をすすめた。すすめられるままに煙草を手にすると、今度はマッチで火をつけてくれた。危害を加えないから安心せよという身振りをしたので、ほっとしていると米兵は「バイバイ」と言って立ち去った。
■米軍の進撃 4月1日~3日 -P95-
4月1日、北・中飛行場を占領。
4月2日午後、太平洋側の中城なかぐすく湾を見渡せる高地に達して、沖縄本島を南北に分断した。
4月3日、南に向かって進撃、普天間に進出する一方、米軍4個連隊が石川地峡を横断する線に到達した。
■証言 I・S(3年生) 住民200人捕虜になる 4月4日雨 -P97-
宜野湾村大山、真志喜ましき一帯に砲弾が落ちてくるようになると、祖父母と病弱の子をかかえた叔母をともなって近くの洞窟・マヤーアブに避難した。母は弟たち5人を連れて先月、国頭くにがみに疎開していた。マヤーアブには真志喜の住民がおよそ200人隠れていた。
米軍は上陸したかと思うと、戦車を先頭に大山、真志喜に直進してきた。やがて集落のムイヌカー(樋川)で、米兵らしい姿を見たという者が出てきた。「敵が来たら竹槍で刺し殺してやる」と息巻く男がいたが、「そんなことをしたら大変なことになるぞ。女、子供を巻き添えにする気か」とみんなでやりこめる一幕があった。
昼ごろ、日系二世が洞窟の入り口に現れた。「米軍は住民に危害を加えないから、みんな安心して出てきなさい」と説いたので、洞窟からみんな出ることになった。外に出ると、数人の男が米兵に銃を突きつけられて座らされていた。軍服を着た県庁の職員やの役員たちで、青ざめた顔をしていた。「殺されるのではないか」と身内の者はおろおろしたが、米兵の言いなりになるより仕方なかった。軍服姿の男たちはどこかに連行されていった。
米兵の誘導で普天間までぞろぞろ歩いて行った。病人や幼児がいて何度も足を止めて休んだが米兵は文句を言わずに休ませてくれた。普天間宮前の広場に着くと、真志喜で銃を突きつけられていたの役員たちが先着していて、われわれを迎えてくれた。彼らは軍服姿だったので、兵隊ではないかと疑われたが、民間人とわかって釈放され、普天間に先に運ばれていたのである。