上、中国兵捕虜を銃殺する日本兵
下、中国兵捕虜を銃剣刺殺する日本兵 1937年9月天津
いずれも、『日本残酷写真史』(下川耿史 著、作品社刊) 129ページ
下、中国兵捕虜を銃剣刺殺する日本兵 1937年9月天津
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■捕虜銃剣刺突訓練
日本陸軍の関東軍が1931(昭和6)年に満州事変を起こし、中国東北部を占領しました。これに始まり1945(昭和20)年の無条件降伏までの15年間、中国領土で戦争を続けました。上の写真は、中国の戦場では普通にあることでした。
わたしの養父は、学徒動員で徴兵召集。速成将校から陸軍の小隊長になって北支に送られました。わたしはいくつかの従軍体験を聞いたことがあります。その中の一つは、小隊が預かった中国人捕虜を夜暗にまぎれて逃したという話です。
中国兵捕虜とは言いませんでした。中国本土で戦争していますから、軍服を脱ぎ捨てた兵士、平服姿の義勇兵、民兵、抗日ゲリラと民間人との正確な判別が不可能に近いことだったので、中国兵捕虜と言わずに、中国人捕虜と言ったのだと思います。
中学生のときだったか高校生のときだったか忘れましたが、そのときの話はこうでした。中国人捕虜を一人、お父ちゃんの小隊で預かった。それがお父ちゃんの弟にそっくりやった。捕虜はみんな、兵隊の銃剣刺突訓練で殺される。弟のことを思い出すと、もうたまらんかった。それで夜に逃した。
また、こうも話しました。上になあ士官学校出の隊長が来たら危のうてしょうがない。とにかく突撃、突撃、言うんや。お父ちゃんは兵隊に、死ぬな死ぬな言うて、弱い隊長やった。
しかしその弱い隊長は、万里の長城のどこかの戦闘で撃たれました。その場で倒れたまま夜になった。味方兵が戦場掃除で傷兵回収に来て、収容されました。将校やから助かった、兵隊やったら死んでると見て置いていかれたと思う、と言っていました。
この話をしたときに、大事に持っていた軍用水筒を私にくれました。1カ所、小さなくぼみがありました。分厚いアルミ色の水筒にカーキ色の布地のカバーがついていました。アルミ色水筒(厚みがある金属でアルミより重かった)は、父が息子に伝えたかった心の温もりに包まれていました。
養父はわたしが大学に進学した翌年の子供の日のよく晴れた青空の下で、わたしの傍で急死しました。然るにわたしは、大事にしていたアルミ水筒を、新卒就職上京以後に引っ越しを何回も重ねるうちに紛失してしまいました。晩年の母の広島原爆ドーム写生行に同行しなかったことと併せて、万感の思いをこめたにちがいない父の水筒を失ったことを、今も後悔しています。
■「日本残酷写真史」から抜き書き 銃剣刺殺と斬首
下川耿史 著、作品社刊、2006.12.15.第三刷
たとえば、兵士が中国人を処刑する様子は、同書(『揚子江が哭いている――熊本第6師団大陸出兵の記録』 創価学会青年部反戦出版委員会編、第三文明社、1979年)に次のように記録されている。
先発の歩兵が5人の中国人を捕えて、村の広場に立たせていた。彼らの後には探さ1メートル、幅5メートルほどの溝が掘ってあった。捕虜を溝の前に並ばせ、穴をあけた孟宗竹に足をくくりつけてあった。銃剣による処刑が行われるのだ。
度胸をつけるため、執行者には初年兵と、日頃、動作の機敏でない者が選ばれたが、「私には子供がいますから許してください」と拒んだ者もいた。
〔…‥・〕約30名が見守る中、20メートルぐらい離れた所からかけ声をかけて心臓を狙って突いていった。気が弱くてためらう者がいると、「俺が模範を示すからつづけ!」と、1等兵で私より2年先輩の古参兵が突いてみせた。初年兵は必死で、「ヤーツ!」と泣き声か気合かわからぬような声を出して突いていった。
私は5メートルの所から見ていた。剣が突き刺さった瞬間、捕虜は「ウーツ!」と叩きながら、目をカツと見開いて、銃剣を力一杯振りしめてその場に倒れるか、後の溝にひつくり返った。足がつながれているので、1人が落ちると他の者も落ちてしまう。捕虜が溝の中で苦しんでいると「ええい! 面倒だ。早く殺してしまえ、こいつはいつまでも生きてやがる!」と大声を出す者もいた。
「子供がいますから許してください」という兵士のいたことにホッとするような思いだが、反面、このような雰囲気の中で一人だけ虐殺を拒否した兵士のその後がどうなったかを想像すると、胸が痛む思いである。これに対して、下士官のやり方は次のようだった。
15名の捕虜たちは、手をきつく縛られたせいか、手首がただれて赤く腫れあがっていた。重い弾薬を首にぶら下げられて歩かされる、その苦しさに耐えられなくなったのか、「どうせ殺されるのなら早く殺してくれ」といった。
「それなら」と適当な場所を探し、堤の土手で処刑することにした。打ち首である。〔……〕首を前に垂れた捕虜に対し、50歳くらいになると思うが、小隊長は何のためらいもなく、むしろ悠然としたような顔をして、両手で力いっぱい斬るのだが、首は完全に斬り落とされることはなかった。首が斬られ、血がバッととんだ瞬間、捕虜の身体は反射的に一間くらい前の他の中に投げ出された。
まだ少し息があるのか口をバクバクさせ、目を白黒させていた者もいた。残りの二、三人になったときには、刀はすでに曲がって斬れなくなっていた。それでも最後の一人まで小隊長一人で処刑した。私たちは五、六十人いたが、その一部始終を皆、「やった! やった」と面白半分に騒ぎながら見ていた。小隊長は、15人やり終わったあと得意気な顔をしていた。われわれは小隊長の行為に対して、勇敢な人だと口々に讃嘆した。
満州事変から日中戦争にいたる戦場では、これが日常茶飯事の光景だった。小隊長に関する記述の中に、捕虜が「どうせ殺されるのなら早く殺してくれ」と要求し、「それなら」といって処刑したとあるのを見ても、処刑が日常化していたことが想像できる。 ――『日本残酷写真史』から抜き書き、終わり)