川本ちょっとメモ

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日本軍、シンガポール占領3年半 (1942.2.~1945.8.)  華僑粛清(1)

2019-08-20 15:22:48 | Weblog
  観光客に囲まれた明るいマーライオン マーライオンやラッフルズホテルのほど近くに血債の塔がある

2014-12-18
わたしたちは戦争加害者の子孫である――日中韓平和のために
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日本軍、シンガポール占領3年半 (1942.2.~1945.8.) 華僑粛清(1)
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日本軍、シンガポール占領3年半 (1942.2.~1945.8.)  華僑粛清(2)
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日本軍、シンガポール占領3年半 (1942.2.~1945.8.)  ここでも日本軍慰安所



昭和天皇時代の日本人は昭和天皇を盟主として、アジア大陸から南太平洋の島嶼に至る広大な領域を戦争にまきこみました。何百万という単位の日本人が戦争で殺されました。多くの日本人がその体験を受け継いで、平和な生活を大切にしています。

その一方日本軍は、たまたま戦争が始まった領域に住んでいる現地の人たちを殺し、彼らの平穏な家族生活を破壊しました。

わたしたちは、沖縄、長崎、広島や米軍無差別爆撃ほかの戦争被害者の子孫としての立場を訴えるだけで一件落着とはまいりません。わたしたちは同時に、アジア各地、南太平洋の島嶼の人々に対する戦争加害者の子孫としての立場を併せ持っています。

戦争加害者の子孫であるという歴史の事実を学び、戦争加害者の子孫という立場を直視して逃げることなく、戦争被害者である諸国の子孫から責められることがあっても、日本軍による加害事実を省みて、被害者の子孫を責め返すような情動を慎み、日本軍による戦争被害者の子孫である諸国の人々と手をつないで未来を築いていきたい。

    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇

1941(昭和16).12. 8. 日本軍、マレー半島コタバル上陸
1942(昭和17). 1.11. 日本軍、クアラルンプール占領
1942(昭和17). 1.31. 日本軍、シンガポール島対岸のジョホールバル占領
1942(昭和17). 2. 8. 日本軍、シンガポール攻略戦開始
1942(昭和17). 2.15. 英国マラヤ軍、降伏
           英軍捕虜13万人(約半数が英植民地インド兵)
           シンガポール陥落 マレー進攻作戦終了

今回から『シンガポール華僑粛清 ―日本軍はシンガポールで何をしたのか― 』(林 博史 著、高文研 刊、2007.6.25.第1刷、全263ページ) を取り上げます。

この本は始めから終わりまで事実ばかり詰めこんで、事実の紹介に徹しています。巻末参考文献一覧に、①未公刊資料:シンガポール1件、イギリス2件、日本4件、②日本語文献79件、③英語文献36件、④中国語文献12件を記載して信頼に足るものです。



シンガポールの観光案内を見てみます。日本発の旅客機はチャンギ空港に着きます。チャンギ空港から市内へMRT(電車)で20~30分です。チャンギ・エアポート駅は、旅客ターミナル2とターミナル3の地下にあります。ターミナル3のあたりは埋立地で、元タナメラ海岸と呼ばれていた所です。『シンガポール華僑粛清』には、このあたりの元タナメラ海岸は、「少なくとも数百人の中国人が日本軍によって連れてこられ、機関銃で処刑されて死体が海に流された場所である」と書いています(10ページ)

マーライオンや、ラッフルズホテルなどの人気の観光地の近くに戦争記念公園があり、高さ67mという「日本占領時期死難人民記念碑塔 Memorial to the Civilian Victims of the Japanese Occupation」が建っています。日本の観光案内には「市民戦没者記念碑」とあり、日本の文献では「血債の塔」と呼ばれています。「血債」とは、中国語で「人民を殺害した罪、血の負債」という意味です。 → 右クリック参照 <血債協定> 戦争賠償・被害者補償ーマレーシア・シンガポール

塔の台座には、次のように碑文が刻まれています。

「深く永遠の悲しみとともに、この記念碑は、日本軍がシンガポールを占領していた1942年2月15日から1945年8月18日までの間に殺されたわが市民たちの追悼のために捧げられる」

日本軍が占領直後に行った華僑粛清の犠牲者の遺骨とみられる大量の白骨が1961年の暮れから翌1962年1月にかけて、シンガポールの東海岸一帯で出土しました。これをきっかけに、シンガポール中華総商会が「日本占領時期死難人民遺骸善後委員会」を組織してシンガポール全島で遺骨の発掘調査を行い、遺骨を埋葬して慰霊碑を建設したのがこの塔です。

『シンガポール華僑粛清 ―日本軍はシンガポールで何をしたのか 』
【引用1】P11~P13

  2001年から毎年、当時の小泉首相が靖国神社を参拝したことに対して、
 中国や韓国から批判が起きたが、シンガポールも厳しい目を向けていた。

  シンガポールのメディアが批判しただけにとどまらず、2006年2月にシ
 ンガポールで開かれたアジア太平洋円卓会議で、基調講演を行ったゴー・
 チョクトン上級相(前首相)は
「日本の指導者たちは参拝を断念し、戦犯
 以外の戦死者を悼む別の方法を考えるべきだ」と小泉首相の靖国神社参拝
 をやめるように求めた。


  2006年6月に、同じくシンガポールで開催されたアジア安全保障会議で
 も、リー・シェンロン首相(建国の父リー・クアンユー元首相の息子)が
「過去の戦争の問題に取り組めば、相互依存がうまくできる。そのとき、よ
 り強固な協力と地域への融合に進むことができる」と日本の姿勢を批判し
 た。


  リー・シェンロン首相は2005年5月、日本を訪問する直前の日本人記者
 団とのインタビューで、
小泉首相の靖国参拝が「この地域で日本の占領を
 経験した国に悪い記憶を思い起こさせる」「シンガポール人を含む多くの
 人にとって、靖国参拝は日本が戦時中に悪いことをしたという責任を受け
 入れていないことの表明と受け取れる」と語っていた。


  こうしたシンガポール首脳の厳しい目を意識せざるをえなかったから
 か、2006年6月にシンガポールを訪問した天皇は、その歓迎晩餐会でのス
 ピーチの中で「私どもは、それに先立つ先の大戦に際し、貴国において
 も、尊い命を失い、さまざまな苦難を受けた人々のあったことを忘れるこ
 とはできません」と日本軍占領中の歴史に触れている。

  1965年の建国以来、長年にわたってシンガポールの首相を務めたリー・
 クアンユー元首相は、その回想録の中で、
「日本人は我々に対しても征服
 者として君臨し、英国よりも残忍で常軌を逸し、悪意に満ちていることを
 示した。日本占領の3年半、 私は日本兵が人々を苦しめたり殴ったりす
 るたびに、シンガポールが英国の保護下にあればよかったと思ったもので
 ある。同じアジア人として我々は日本人に幻滅した」とその体験を語り、

 「戦争が終わって50年もたつのに、歴代の自民党政権政府は、そして主要
 政党の主だった指導者、学界、そして大半のメディアはこの悪魔の行いに
 ついては語ろうとしない。ドイツと違い、彼らは世代が過ぎていくことで
 このような行いが忘れられ、彼らの行為の記述が挨をかぶった記録の中に
 埋もれ去られてしまうことを願っている。もし、これらの過去を隣人に対
 して認めないならば、人々はこうした恐怖が繰り返されることもありえる
 と恐れるしかない」と日本政府の姿勢を厳しく批判している。

                (『リー・クアンユー回顧録』上巻、35、60頁)

  彼自身、日本軍の粛清によってあやうく命を失いかけた経験をもってい
 る。

  少し前にさかのぼるが、1992年2月に上級相として来日して、関西財界
 セミナーで講演した際には、
シンガポールの慰安所に日本軍兵士が長い列
 をなしているのを見たことに触れ、日本政府が長年にわたって慰安所への
 軍の関与を否認し続けてきたことを批判した。


  同時にカンボジアでの国連平和維持活動(PKO)に日本の自衛隊が参
 加することに関わって、軍事的役割ではなく後方支援に限定すべきである
 と警戒心を示した。

 ―略― 1942年2月から1945年8月までの3年6カ月にわたる日本軍の占領
 時代に一体何があったのだろうか。シンガポールの人々が受けた苦難は多
 岐にわたっているが、その最大のものが本書で取り上げる華僑粛清、すな
 わち華僑虐殺である。
 (引用、終わり)





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