2014-12-18
わたしたちは戦争加害者の子孫である――日中韓平和のために
2019-08-13
東アジア 日本が目ざすべきは――日韓台の友好結束と対米中ロ韓北5カ国平和外交と対北朝鮮防衛武備充実
2019-08-17
満州事変1931年から敗戦1945年まで日本軍による斬首や銃剣刺殺は日常茶飯事でした
2019-08-20
日本軍、シンガポール占領3年半 (1942.2.~1945.8.) 華僑粛清(1)
2019-08-22
日本軍、シンガポール占領3年半 (1942.2.~1945.8.) 華僑粛清(2)
2019-08-27
日本軍、シンガポール占領3年半 (1942.2.~1945.8.) 華僑粛清(3) 第25軍軍律
2019-08-29
日本軍、シンガポール占領3年半 (1942.2.~1945.8.) ここでも日本軍慰安所
1941(昭和16).12. 8. 日本軍、マレー半島コタバル上陸
1942(昭和17). 1.11. 日本軍、クアラルンプール占領
1942(昭和17). 1.31. 日本軍、シンガポール島対岸のジョホールバル占領
1942(昭和17). 2. 8. 日本軍、シンガポール攻略戦開始
1942(昭和17). 2.15. 英国マラヤ軍、降伏
英軍捕虜13万人(約半数が英植民地インド兵)
シンガポール陥落 マレー進攻作戦終了
今回も『シンガポール華僑粛清 ―日本軍はシンガポールで何をしたのか― 』(林 博史 著、高文研 刊、2007.6.25.第1刷、全263ページ) を取り上げます。
この本は始めから終わりまで事実ばかり詰めこんで、事実の紹介に徹しています。巻末参考文献一覧に、①未公刊資料:シンガポール1件、イギリス2件、日本4件、②日本語文献79件、③英語文献36件、④中国語文献12件を記載して信頼に足るものです。
『シンガポール華僑粛清 ―日本軍はシンガポールで何をしたのか 』
【引用10】P201
戦争中の占領地においては、占領軍に対する敵対行為などについて占領軍が罪と罰を規定した「軍律」を布告し、この「軍律」に違反する者を軍律会議(裁判所にあたる)にかけ、その判決に基づいて処罰するという手続きが戦時国際法上、認められていた。
【引用11】P202
第25軍はマレー半島上陸後まもなくの1941年12月19日、マレー半島北部のケダ州アロースターにおいて、山下奉文第25軍司令官名で第25軍軍律と軍律審判規則を制定、即日施行していた。(「陸亜密大日記」昭和17年4)
【引用12】P204
軍律実施にあたって第25軍参謀長鈴木宗作の名で、通牒が隷下各部隊宛に出されており、そのなかで「軍律違反事件は軽微なるものを除き務めて証拠を蒐集の上軍律会議に送致すること」などを指示している。
※鈴木宗作第25軍参謀長。のち1944年7月28日第35軍司令官。レイテ島からミンダナオ島
へ軍司令部移動中の海上にて戦死。
『シンガポール華僑粛清 ―日本軍はシンガポールで何をしたのか 』
【引用13】P203
第25軍軍律は全部で14ヵ条からなり、第2条で処罰する行為として「反逆行為」「間諜行為」「前二号の外軍事行動を妨害し又は安寧を害する行為」の3項目をあげている。
第5条で「死」「監禁」「追放」「過料」「没取」の5種類の罰を定めており、第6条で「死は銃殺」と規定している。
『シンガポール華僑粛清 ―日本軍はシンガポールで何をしたのか 』
【引用14】P53
シンガポール市郊外のブキテマ高地にととまっていた第5師団歩兵第9旅団長の河村参郎少将は、1942年2月17日夜、シンガポール警備司令官に任命するという軍司令官からの命令を受け取った。
翌2月18日午前10時、ラッフルズ・カレッジにあった軍司令部に出頭した。ここで山下奉文第25軍司令官から、シンガポール警備司令官に任命され、第2野戦憲兵隊と2つの歩兵大隊を指揮下に入れた。また軍参謀・林忠彦少佐をつけると申し渡された。
この場には軍司令官のほかに軍参謀長鈴木宗作中将、軍参謀(作戦主任)辻正信中佐、軍参謀林忠彦少佐がいた・
『シンガポール華僑粛清 ―日本軍はシンガポールで何をしたのか 』
【引用15】P54
河村はシンガポール警備司令官に任命すると告げられたのに続いて、山下軍司令官より「掃討作戦命令」を受けた。その内容は次のとおりであった。
一、軍司令官は抗日分子の絶滅を企図している。
一、河村少将は指揮下の地域の掃討作戦をただちにおこない、抗日分子を
一掃すべし。
―略―
【引用16】P56
その後、河村は鈴木参謀長より次のような内容の詳しい指示を受けた。
―略―
①指揮下の地域のまわりに哨兵線を張り、抗日分子の逃亡を防ぐ。
②すべての中国人を指定した地域に集め、抗日分子を選別する。
③すべての抗日分子を秘密裏に処分する。※処分するとは殺すこと
④この任務を監督するため辻正信中佐を派遣する。
―略―
捕らえたものをすぐに処刑してしまえという命令に驚いた河村は質問しようとしたが、参謀長は「中国人を殺すことについて議論や意見があるが、軍によって綿密に検討され、軍司令官によって決定されたものである。さらに言えば、期間を延長することは許されない。その質問はあとでしよう」と質問をさえぎった。
山下奉文第25軍司令官によるこの「掃討作戦」命令は1942年2月18日。作戦終了指定日は2月23日でした。日数は1週間足らずしかありません。シンガポール華僑粛清は山下奉文第25軍司令官命令で行われました。
第25軍司令官は自ら定めた「軍律」を意に介さない命令を出したのです。
戦地における抗命は銃殺覚悟になります。平時の軍隊であっても、命令拒否などできることではありません。このことでは軍命令を実行した何人かの戦犯処刑が行われました。
戦地ではこういうことが常に起こり得ます。人間としての良心があったとしても、命令受領者は、命令に抵抗することは不可能です。そして仕方なく命令を実行したとしても、戦争に負ければ戦犯として処刑されるのです。処刑されなくとも、無為に多くの人を殺した事実は残ります。一生、苦しむことになります。
『シンガポール華僑粛清 ―日本軍はシンガポールで何をしたのか 』
【引用17】P204
戦後、河村が「本来これ等の処断は、当然軍律発布の上、容疑者は、之を軍律会議に付し、罪状相当の処刑を行ふべきである。それを相当作戦命令によって処断したのは、形式上些か妥当でない点がある」(河村参郎『十三階段を上る』167ページ)と振り返っているのは、このことを示している。
日本軍は自ら定めた法(※軍律)をまったく無視して粛清を行ったのである。
※シンガポール警備隊司令官河村参郎陸軍少将は戦後1947年6月26日、英軍により戦犯
処刑されました。
『シンガポール華僑粛清 ―日本軍はシンガポールで何をしたのか 』
【引用18】P134
このときのことではないか(※2月28日~3月1日近衛師団)と思われるが、第25軍宣伝班員としてシンガポールに従軍していた松本直治氏によると、第一次粛清の少し後での出来事として次のように語っている。
「『漢奸狩りがある。一緒に来たまえ、取材の一つになる』と、若い顔見知りの中尉に誘われ、長屋と出かけることにした。チャンギ俘虜収容所の近くだった。
(中略)鉄網で囲んだ地域の中に壕が掘られていた。深さ約1.5メートル、幅2メートル、長さ約100メートルの細長い壕を前に、後手に縛られ数珠つなぎになった約200人が座らされていた。
座った人は次々に目隠しされていくのだが、首を振って拒否する者もいた。日本刀が振り上げられ、首が切り落とされると血が噴きあがり、体が壕の中に落ちる。10人ほど切られるのを見ていたが、気分が悪くなった。
『もう行かなあかん、長屋君』 彼を促して、その場を離れた。若い将校は笑っていた」(松本直治『大本営派遣の記者たち』78ページ)
※殺すか殺されるかの戦闘を何度もくぐってくると、戦地では多くの将兵が、生き残るため
に不感症になっていくのではないでしょうか。人々の生活を守るために、戦争を遠ざけ
る、あるいは戦争から遠ざかる、常からの外交姿勢が求められています。