川本ちょっとメモ

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日本軍、シンガポール占領3年半 (1942.2.~1945.8.)  華僑粛清(2)

2019-08-22 02:04:00 | Weblog

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2019-08-20
日本軍、シンガポール占領3年半 (1942.2.~1945.8.) 華僑粛清(1)
2019-08-22
日本軍、シンガポール占領3年半 (1942.2.~1945.8.)  華僑粛清(2)
2019-08-27
日本軍、シンガポール占領3年半 (1942.2.~1945.8.)  華僑粛清(3) 第25軍軍律
2019-08-29
日本軍、シンガポール占領3年半 (1942.2.~1945.8.)  ここでも日本軍慰安所



1941(昭和16).12. 8. 日本軍、マレー半島コタバル上陸
1942(昭和17). 1.11. 日本軍、クアラルンプール占領
1942(昭和17). 1.31. 日本軍、シンガポール島対岸のジョホールバル占領
1942(昭和17). 2. 8. 日本軍、シンガポール攻略戦開始
1942(昭和17). 2.15. 英国マラヤ軍、降伏
           英軍捕虜13万人(約半数が英植民地インド兵)
           シンガポール陥落 マレー進攻作戦終了


今回も『シンガポール華僑粛清 ―日本軍はシンガポールで何をしたのか― 』(林 博史 著、高文研 刊、2007.6.25.第1刷、全263ページ) を取り上げます。

この本は始めから終わりまで事実ばかり詰めこんで、事実の紹介に徹しています。巻末参考文献一覧に、①未公刊資料:シンガポール1件、イギリス2件、日本4件、②日本語文献79件、③英語文献36件、④中国語文献12件を記載して信頼に足るものです。


『シンガポール華僑粛清 ―日本軍はシンガポールで何をしたのか 』
【引用2】P26
  1週間ほどのシンガポール戦の中ですでに華僑粛清の序章が始まってい
 た。日本軍はシンガポール島の北西海岸から上陸し市内を目指したが、島
 中央部にあるブキテマ高地は攻防の焦点となった。日本軍はここを2月11
 日から12日にかけて占領したが、イギリス軍の抵抗は強く、特に激しい砲
 撃の反撃を受けた。

  このブキテマ・ロード6マイル地点で防空壕に避難していた通和トンフー
 村長だった梁ネオ后宙一家三十数人が、2月14日に女性子どもも含めて日本
 軍に銃剣で虐殺された。当時9歳だった村長の息子梁亜六ネオアーラクさんは
 かろうじて生き残った。
 (中国新聞社『亜細亜からアジア』P9~10、区如柏『烽火歳月』P21~22、張連紅・柯冰
  蓉『日侵時期新馬華人受害調査』P142)


  ここは競馬場のすぐ南側付近にあたるが、ほかにもこの地域で多くの村
 民が虐殺された。


『シンガポール華僑粛清 ―日本軍はシンガポールで何をしたのか 』
【引用3】P27
  第5師団砲兵第5連隊の一員で、このブキテマでの戦闘に参加した坂本
 定夫氏は、次のように語っている。

 「シンガポールに上陸するとすぐ『子供も女も、皆、殺せ』という命令が
 出た。しかし、命令がいくら出ても、軍服を着ていれば殺すが、それ以外
 は、どうしても殺せない。

  だが、戦争であるから、子供も、女も、手榴弾を持っている。よく女達
 は、髪を結った中に隠していた。その手榴弾で、多くの兵隊が死んだため
 に『皆、殺せ』という命令が出たのであった。そのために、多くの子供
 と、女が、戦争の犠牲になった。」
              (創価学会『郷土部隊 その慟哭の日々』P83~84)


『シンガポール華僑粛清 ―日本軍はシンガポールで何をしたのか 』
【引用4】P28
  第5師団歩兵第21連隊に所属していた河野通弘氏は、2月13日に「旅団
 予備の第2大隊に『華僑を掃滅せよ』との命令が下された。

  戦火から身を守るブキテマ華僑700余人は付近の防空ごうに退避してい
 たが、この中に抗日分子が潜伏し無線基地を造っていた。

  もはや一刻の猶予もなかった。大隊長は7中隊長に華僑掃滅を命じた。

 スパイ検問の余裕なく老若男女、幼児もろとも殺害に及んだ。射殺、刺
 殺、あらゆる手段を用い、はてはごう内に住民を封じこめ手りゆう弾で爆
 殺した。

  (中略)作戦上の緊急手段であったとはいえ、多数の罪のない住民を殺
 害した。私は大隊本部付で、敵情視察でこの惨劇に遭遇した」と語り、こ
 のことを戦後40年目、第7中隊第1小隊長ら2人の証言で確認したと語っ
 ている。(朝日新聞テーマ談話室『戦争』上巻、185~186頁)

  このように激しい戦闘が行われたブキテマにおいて、華僑がイギリス軍
 に協力しているのではないかと疑った日本軍は、少なくとも数百人の村民
 を女性子どもも含めて虐殺していた。

  ブキテマのケースは第5師団によるものだが、同じようなことは第18師
 団が戦った西海岸沿いでも起きていた。


『シンガポール華僑粛清 ―日本軍はシンガポールで何をしたのか 』
【引用5】P29
  西海岸のアエル・ラジャ方面、現在のシンガポール国立大学の敷地内に
 あった村で、当時10歳の謝昭思さん一家25人のうち21人が2月14日に殺さ
 れている。

  父や兄弟4人、姉2人などが殺され、生き残ったのは、重傷の母と18カ
 月の弟、おばと昭思さんだけだった。 (1998年12月8日、アジア・フォーラム
 横浜主催の証言集会での証言、張連紅P139~P141)



『シンガポール華僑粛清 ―日本軍はシンガポールで何をしたのか 』
【引用6】P29

   第18師団の地域では、その師団の歩兵第114連隊にいた荒井三男氏によ
 ると、2月12日に師団司令部から「師団長閣下の命令です。うしろのゴム
 林の小屋にいる女たちがあやしいから、連れてこい、ということです」と
 連絡があり、連隊の角平高級副官が下士官と兵に命じて、20~30歳くらい
 の3人の女を連れてこさせた。

 「さきほどの戦車への砲撃がこの女たちの合図によるものと」考えたから
 のようで、その女性たちは木に縛り付けられ刺殺されたという。
              (荒井三男『シンガポール戦記』P153~P158)



『シンガポール華僑粛清 ―日本軍はシンガポールで何をしたのか 』P29
【引用7】P29
 従軍記者だった小俣行男氏は、
 ある家の前で五、六人が後ろ手に縛られているのに出会ったので、
 日本兵に「何をしたのか」と尋ねたところ、

 その第5師団の兵士は、「日本軍が入って来ても逃げもしないで家に残っ
 ているのはスパイですよ。日本軍の動向を敵に知らせるために残ったもの
 ですよ」と言った。

 そしてその中国人たちはゴム林の中に連れて行かれて銃殺された。

  小俣氏は「華僑の処刑は上陸早々からはじめられたのだった」と述べて
 いる。 (小俣行男『続侵掠』P98、P131)


『シンガポール華僑粛清 ―日本軍はシンガポールで何をしたのか 』
【引用8】P30
  同じく従軍記者だった松本直治氏もシンガポールで「スパイがいる。住
 民と思っていると、とんだ間違いを起こす。戦場をうろついている奴は好
 漢(注-敵の協力者の意)か便衣隊(注-ゲリラのこと)で敵兵より危な
 い。見つけたら射殺しろ」という「軍命令が早くから出されていた」と書
 いている。 (松本直治『大本営派遣の記者たち』P37)



『シンガポール華僑粛清 ―日本軍はシンガポールで何をしたのか 』
【引用9】P30
  シンガポール攻略戦の最中における事件としては、西海岸沿いのアレク
 サンドラ陸軍病院において、医師など病院スタッフや患者ら200~400人が
 日本軍に殺害された事件が有名である。
   (極東第59巻№5052'第64巻№5373'『日本軍占領下のシンガポール』P58~P59)
    ※上記出典は極東国際軍事裁判(東京裁判)に提出された検察側証拠書類の巻数と書類
     番号を示している(東京大学社会科学研究所所蔵)


  華僑がイギリス軍の砲撃などにおいてスパイの役割を果たしているとい
 う疑いから、砲撃で被害を受けた部隊がこうした残虐行為を行っていた。

  華僑が砲撃の手引きをしているというのは、後で検討するが、日本軍の
 誇大妄想にすぎなかったといってよい。
 (『シンガポール華僑粛清 ―日本軍はシンガポールで何をしたのか 』P215~P217参照)



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