人様のお宅の心配している場合ではない。
我が家の男系も先細り。
系図書いてみました。
赤丸が夫です。分家した夫の祖母以外の女性は省略、男性のみです。
夫の系統は大正の初めころ?夫の祖母(一人娘)が養子を取って地主の家を継いだところから始まります。
養子は曽祖父と番頭さんで吟味、九州から若い医師を婿として迎え、長男もできたころに祖母にはうんと年の離れた弟ができます。この人は後妻の子供です。
男子なので家督を継ぎ、祖母一家は敷地内に家を建てて分家します。
祖母には三人の男子があり、次男が夫の父親、我が舅様です。
分家したとはいえ、裕福な暮らしだったらしく、子供には一人づつ、小作人の家から子守りが来ていたとのこと。子守りをしながら行儀作法も習うのでしょうか。祖母は何でもできる人だったので、縫物なども教えていたはず。ぼんやりしていては大家の奥様は務まりません。
太宰の「津軽」の世界ですね。
しかしながら養子に来た夫の祖父はわずか40代でなくなります。働きすぎて腎不全になったと聞きました。田舎のことで医師が少なく、とても忙しくて体を壊したと聞きました。今のように透析もなく、最後は「モヒ(モルヒネ)打ってくれ」と言いながら亡くなったとか。
18歳で医師になり、40代でなくなる。生き急いだ人生でしたね。写真見ると髭を蓄えて老成した風貌。昔の人は早くに大人になっていたのでしょう。
その時我が舅様は高校生で、遺言で「お前は医者になれ」と言われたそうです。その後、某帝大の医学部に進み、学費は夫から言うと曽祖父が出してくれたそうですが、長い休みが終わる時に本家に挨拶に行き、次の休みまでのお金をもらう。遠慮して最低限しか言わないのに、それよりまだ少なくしかもらえなかったと生前話していました。
父親がなくて、たとえ身内でも人に頭を下げて学費をもらうのがどんなに辛いことか、息子たちが勉強しない時には私も腹が立って、この話をしたのですが、親がいて当たり前、親が学費出してくれて当たり前の息子たちには全然伝わりませんでした。
えー男系の話でしたね。
夫の親世代は本家分家併せて4人の男子。全員結婚して、全員男の子に恵まれます。
夫の世代では倍増して8人の男子。
しかし結婚したのは半分の4人。そのうち男子が生まれたのは2人。女の子だけが1人、子供がいないのが1人。未婚が半分の4人。成人する前の死亡は原爆死に水死です。
さらに息子の世代になると、男の子は半減して4人。
そのうち未婚2人、子供なし1人、男の子がいるのは我が長男だけ。その子は7歳。家制度はなくなりましたが、◎◎という姓を継ぐのは(たぶん、結婚相手の姓を名乗らない限り)その子だけになりそうな予感。
しかも7歳の孫、4歳のころ、「**クンは下品なこと言って嫌われているから結婚できない」と申していました。その頃、何にでも「うんち」を付けて大人が嫌がるのを面白がっていたのです。
「大丈夫よ。まだ間があるからそれまでに直せばいいのよ」と言う祖母。
こうして略系図を書いてみると、男系を続けるのが一庶民の家でも難しくなっているのかなと思います。
もちろん嫁いだ女性もたくさん、そちらの子孫もいるので、女系で書いてみれば賑やかなはず。今度機会のある時に。
簡単なファミリーヒストリーみたいになりましたが、私の実家は純粋庶民、結婚してから聞かされる夫の本家筋の昔話には驚くことばかりでした。
年貢を持って来る日には小作人は全員座敷に上げて、酒食のもてなしをする。
用心が悪いので駐在所を屋敷のすぐ外に誘致する。
地主としての経営は有能な番頭に任せ、特定郵便局を始める。
お金出して橋を作る。
陸軍大演習で何とかの宮(竹田宮でないことを願う)の休憩所になった時に、事前に手洗いを新設。
流しの絵描きや琴の教師などが半年くらい滞在する。その間にふすまや掛け軸の絵を描いてもらったり、夫の祖母は娘時代、そうして琴を習ったそうです。
まだまだたくさんありますが、自慢話になりそうなので止めておきます。
私が嫁いだ1970年代は地主制度がなくなってまだ25年くらいしかたっていません。四国の小作人の娘と思われていたのかも。我が家の相手にふさわしくないと思われていたのかも(戦前は自小作で2町歩くらい。純粋の小作人ではありませんが、まあそんなことはどちらでもいいけど)。
いまだ未婚の夫と同世代の人は、親が家柄に釣り合う相手を探すうちに結婚しそびれたとのこと。
釣り合うとは何?
本人同士、この人と思うのが、いちばん釣り合っているのでは。そうしないと家系はどんどん先細り。
皇族の結婚でその原則を改めて思った私でした。