父親は普通のサラリーマンのように
定時に出勤になりました。
満洲映画協会(満映=まんえい)は
満洲國の映画制作会社なのですが
父親は現場の仕事から外れたようでした
… … …
父親は京都・下鴨時代はアスファルトの町角を
歩いての出勤だったのに
新京の房産住宅では
広大な野原の背の高い雑草の中に
父親は消えていきます
私も春光国民学校に転校してからは
同じ雑草の生い茂った細い道を歩いて登校です
雑草の途切れたところに市電の停留所
撫松路(ぶしょうろ)がありました
父親は市電に乗って満映前まで乗ります
私は線路脇の広い道路を歩いて通学です
私の転校した春光国民学校は二階建てで
横に広い校舎で一階は国民学校(小学校)で
二階は師範学校が使用していました
運動場は、下鴨小学校(国民学校)の
二倍、以上の広さでした
初めての教室で先生から皆に
紹介されて、いつの間にか
春光国民学校に馴染んでいきました