経営コンサルタントへの道

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【カシャリ!ひとり旅】京都迎賓館6 日本の匠の技術の粋を集めた国賓級の人を迎える館 庭屋一如の3つの庭園

2023-05-17 17:24:40 | 【カシャリ!ひとり旅】 京都

 

  【カシャリ!ひとり旅】京都迎賓館6 日本の匠の技術の粋を集めた国賓級の人を迎える館 庭屋一如の3つの庭園 

 若い頃からひとり旅が好きで、経営コンサルタントとして独立してからは、仕事の合間か、旅行の合間に仕事をしたのかわかりませんが、カメラをぶら下げて【カシャリ! ひとり旅】をしてきました。

 旅は、時間に追われる現実からの開放、明日への糧となります。

 写真は、自分の記録であるとともに、お節介焼き精神から、他の人に情報提供も兼ねてとり続けてきました。

 何を思って撮影したのだろうか? 自分も行ってみたい・・・

 他の人に、そう思っていただける写真を撮りたいと思って、ライフワークとして、続けられるだけ続けてまいりたいです。

 

名所旧跡  グロマコン 経営コンサルタントへの道

 

■■ 京都迎賓館6 日本の匠の技術の粋を集めた国賓級の人を迎える館 庭屋一如の3つの庭園

 京都迎賓館(きょうとげいひんかん、Kyoto State Guest House)は、京都市内の京都御苑内東北部にあり、元赤坂の迎賓館赤坂離宮とともに、日本の迎賓館として国の体面を保つ施設です。
 迎賓館は、外国の国家元首や政府の長などの国賓を迎え入れた時に、会食や宿泊等の接遇を行う施設です。

 京都迎賓館は、2005年(平成17年)4月17日に開館しました。「日本の伝統技能の粋を集めた最高のおもてなしの場」と評され、日本の歴史、文化を象徴する京都で、賓客を迎えいれ、日本への理解と友好を深める施設といえます。
 建物は、洋風の赤坂迎賓館とは対照的な和風建築として設計されています。南側を「表」(公の場)、北を「奥」(私的施設)と位置付け、建物の南半分には会議・会談、晩餐、和風会食、管理等の施設が、北半分には賓客の居住・宿泊のための施設が配置されています。
 歴史的景観や周辺の自然環境との調和を図るため、日本の伝統的な住居である入母屋(いりもや)屋根と数寄屋(すきや)造りの外観です。
 「行の庭」と命名された池の周囲に、聚楽の間、夕映えの間、藤の間、桐の間、滝の澗、貴船の間、水明の間や宿泊エリアがあります。
  所在地    京都府京都市上京区京都御苑23
  敷地面積    約2万140平方メートル
  本館構造    鉄筋コンクリート造、地上1階(地下1階)
  延床面積    約1万6000平方メートル


 庭園は、仁和寺・御室御所の御用庭師だった佐野藤右衛門氏が携わっています。庭園の大滝を手掛けたのは、イサム・ノグチ氏の共同制作者でもあった石彫家・和泉正敏氏です。

 玄関前の「真の庭」、館内の中央「行の庭」、賓客宿泊室に面する「草の庭」の3面で構成されています。
 「庭屋一如(ていおくいちにょ)」の現代和風の庭園として、尼崎博正氏の監修により、佐野藤右衛門氏を棟梁とする京都の庭師らにより作られました。
 庭屋一如とは、「庭と建物は一つの如し」という意味です。庭と建物が融合し、自然と調和する境地、庭と建物の調和がとれた生活空間、引いては環境と共生する建物を指します。
 古くから日本の住まいには庭園や坪庭があり、「自然と人は分かち難く、つながっている」という日本人の心情があらわれています。(「庭屋一如」の説明はhttps://shichusankyo.com/theme/garden/をもとに作成)

 長年希望していたものの、なかなか予約が取れませんでした京都迎賓館を訪れるチャンスが偶然のタイミングでやってきました。
 一名の予約キャンセルがあると、迎賓館横の休憩所で、係の人から声をかけられたのです。
 日本の匠の技の結集である京都迎賓館は、想定以上に感動しました。

 建物や調度品には、数寄屋大工、左官、作庭、截金(きりかね)、西陣織や蒔絵(まきえ)、漆など、数多くの京都を代表する伝統技能が活かされ、それを処々で感じ取れます。

■ 日本庭園
 玄関前の「真の庭」、館内の中央「行の庭」、賓客宿泊室に面する「草の庭」の3面で構成されています。
 「庭屋一如(ていおくいちにょ)」の現代和風の庭園として、尼崎博正氏の監修により、佐野藤右衛門氏を棟梁とする京都の庭師らにより作られました。
 庭屋一如とは、「庭と建物は一つの如し」という意味です。庭と建物が融合し、自然と調和する境地、庭と建物の調和がとれた生活空間、引いては環境と共生する建物を指します。
 古くから日本の住まいには庭園や坪庭があり、「自然と人は分かち難く、つながっている」という日本人の心情があらわれています。(「庭屋一如」の説明はhttps://shichusankyo.com/theme/garden/をもとに作成)
 ただし、一般ツアーでは、宿泊室に面し、滝を有する「草の庭」を拝見することはできませんでした。

■ アクセス

 京都市営地下鉄今出川駅より徒歩10分

 見学料: 2,000円
 事前予約制
 空きがあると当日受付もあります

 

 玄関前の「真の庭」 

 

京都迎賓館前庭

「新の庭」は京都迎賓館正面玄関前に位置しています

前庭には御影石が敷き詰められ重厚さを感じました


敷石となっている御影石

「新の庭」の二大立役者

玄関越しに見る正面門

 

 館内の中央「行の庭」 

 

建物に囲まれ、中庭のようになっているのが「行の庭」です

エントランスホールから見た「行の庭」の池

最初に入った「聚楽の間」からは庭園・池は見えません

 

 夕映えの間から見た「行の庭」 

 

「比叡月映」、「愛宕夕照」の綴れ織りのある

夕映えの間から「行の庭」を見ました

夕映えの間から見た「行の庭」南池

 

 

 

 

 

 

 藤の間から見た「行の庭」 

 

大広間の晩餐室である藤の間は、

人間国宝の江里佐代子氏による截金で飾られています。

 

雪見障子越しに見る「行の庭」

 

 

水面の揺らぎ

 

 桐の間から見た「行の庭」 

 

和の晩餐室「桐の間」からも「行の庭」が見えます

桐の間の廊下の外には庭園も見えます

 

 

 

 

 舟形天井の廊下から見た「行の庭」 

 

池を渡る屋根付き廊下

橋の南東たもとに立つやなぎ

「行の庭」南半分

正面は夕映えの間

「行の庭」南東部

「行の庭」南西部

「行の庭」南西部

「行の庭」北側、建物は宿泊室

 

宿泊室横にある船泊

 

船泊から見た桐の間(正面)と舟形天井橋(右)

宿泊室

舟形天井橋中央からは北正面に位置

舟形天井橋からみる北東の浜

橋のたもとに咲くコウホネ

 

 

京都迎賓館1 アプローチ         

京都迎賓館2 エントランスホールと聚楽の間

京都迎賓館3 綴れ織による日月の夕映え景色 

京都迎賓館4 晩餐会場「藤の間」     

京都迎賓館5 和の晩餐室「桐の間」    

京都迎賓館6 庭屋一如の3つの庭園    

 

  リスト http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/indexmovie.htm

  ■ カシャリ! ひとり旅


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【カシャリ!ひとり旅】京都迎賓館4 日本の匠の技術の粋を集めた国賓級の人を迎える館 晩餐会場「藤の間」

2023-05-17 15:03:00 | 【カシャリ!ひとり旅】 京都

  【カシャリ!ひとり旅】京都迎賓館4 日本の匠の技術の粋を集めた国賓級の人を迎える館 晩餐会場「藤の間」 

 若い頃からひとり旅が好きで、経営コンサルタントとして独立してからは、仕事の合間か、旅行の合間に仕事をしたのかわかりませんが、カメラをぶら下げて【カシャリ! ひとり旅】をしてきました。

 旅は、時間に追われる現実からの開放、明日への糧となります。

 写真は、自分の記録であるとともに、お節介焼き精神から、他の人に情報提供も兼ねてとり続けてきました。

 何を思って撮影したのだろうか? 自分も行ってみたい・・・

 他の人に、そう思っていただける写真を撮りたいと思って、ライフワークとして、続けられるだけ続けてまいりたいです。

 

名所旧跡  グロマコン 経営コンサルタントへの道

 

■■ 京都迎賓館4 日本の匠の技術の粋を集めた国賓級の人を迎える館 晩餐会場「藤の間」

 京都迎賓館(きょうとげいひんかん、Kyoto State Guest House)は、京都市内の京都御苑内東北部にあり、元赤坂の迎賓館赤坂離宮とともに、日本の迎賓館として国の体面を保つ施設です。
 迎賓館は、外国の国家元首や政府の長などの国賓を迎え入れた時に、会食や宿泊等の接遇を行う施設です。

 京都迎賓館は、2005年(平成17年)4月17日に開館しました。「日本の伝統技能の粋を集めた最高のおもてなしの場」と評され、日本の歴史、文化を象徴する京都で、賓客を迎えいれ、日本への理解と友好を深める施設といえます。
 建物は、洋風の赤坂迎賓館とは対照的な和風建築として設計されています。南側を「表」(公の場)、北を「奥」(私的施設)と位置付け、建物の南半分には会議・会談、晩餐、和風会食、管理等の施設が、北半分には賓客の居住・宿泊のための施設が配置されています。
 歴史的景観や周辺の自然環境との調和を図るため、日本の伝統的な住居である入母屋(いりもや)屋根と数寄屋(すきや)造りの外観です。
 「行の庭」と命名された池の周囲に、聚楽の間、夕映えの間、藤の間、桐の間、滝の澗、貴船の間、水明の間や宿泊エリアがあります。
  所在地    京都府京都市上京区京都御苑23
  敷地面積    約2万140平方メートル
  本館構造    鉄筋コンクリート造、地上1階(地下1階)
  延床面積    約1万6000平方メートル


 庭園は、仁和寺・御室御所の御用庭師だった佐野藤右衛門氏が携わっています。庭園の大滝を手掛けたのは、イサム・ノグチ氏の共同制作者でもあった石彫家・和泉正敏氏です。

 玄関前の「真の庭」、館内の中央「行の庭」、賓客宿泊室に面する「草の庭」の3面で構成されています。
 「庭屋一如(ていおくいちにょ)」の現代和風の庭園として、尼崎博正氏の監修により、佐野藤右衛門氏を棟梁とする京都の庭師らにより作られました。
 庭屋一如とは、「庭と建物は一つの如し」という意味です。庭と建物が融合し、自然と調和する境地、庭と建物の調和がとれた生活空間、引いては環境と共生する建物を指します。
 古くから日本の住まいには庭園や坪庭があり、「自然と人は分かち難く、つながっている」という日本人の心情があらわれています。(「庭屋一如」の説明はhttps://shichusankyo.com/theme/garden/をもとに作成)

 長年希望していたものの、なかなか予約が取れませんでした京都迎賓館を訪れるチャンスが偶然のタイミングでやってきました。
 一名の予約キャンセルがあると、迎賓館横の休憩所で、係の人から声をかけられたのです。
 日本の匠の技の結集である京都迎賓館は、想定以上に感動しました。

 建物や調度品には、数寄屋大工、左官、作庭、截金(きりかね)、西陣織や蒔絵(まきえ)、漆など、数多くの京都を代表する伝統技能が活かされ、それを処々で感じ取れます。

■ 藤の間(ふじのま)
 最大120名までの大広間で、主に晩餐室として使われます。人間国宝の江里佐代子氏による截金(きりかね)が施された檜舞台と舞台扉「響流光韻」(こおるこういん)は、見応えがあります。
 正面の壁面は、藤を始めとする39種の四季の花々が描かれた綴れ織で、「麗花」(れいか)と命名されています。言うまでもなく、これが、この部屋の名前の由来となっています。その下図は鹿見喜陌氏、監修者は内山武夫氏によるものです。

 床の段通には、藤の花びらが散りばめられていますが、その気になって目をこらえて見ますと藤の花びらが浮き上がって見えてきます。
■ アクセス

 京都市営地下鉄今出川駅より徒歩10分

 見学料: 2,000円
 事前予約制
 空きがあると当日受付もあります

 

藤の間と廊下

正面は「麗花」(れいか)と命名されています。

藤を始めとする39種の四季の花々が描かれた綴れ織

日本画と紛う藤の綴れ織り

正面右手の桜

正面西側に配された家具

沈金細工でしょうか

 

西面:檜舞台

人間国宝の江里佐代子氏による

截金(きりかね)が施された檜舞台と

可動式の舞台扉「響流光韻」(こおるこういん)

コンピュータ・グラフィックスを見るような細緻な截金


フォーカスが甘くて申しわけありません。

可動式扉の沈金は角度を変えると見え方が変わります

下に垂れた細い截金にも心が配られています

仕切り衝立

衝立の縦枠に、藤の間らしい細やかな飾り

 

東面

藤の間は、館内最大の大広間

最大120名までの晩餐室

展示用テーブルセット

背もたれも座面も紫色に統一された西陣織

漆黒に金色がさりげなく

料理により、器やツールが異なります

藤の花びらが散りばめられた床の段通

踏むのが阻まれます。

膝をついて写真を撮ることが禁じられています。

格子天井になっている照明

各格子が3枚の可動式のカバーで

いろいろなバリエーションの照明ができます

「和」基調の幾何学模様ですが違和感がありません

飾り金具

黒漆枠の欄間

雪見障子から池が見えます

詳細は、「庭園編」をご覧下さい

 

 

 

  リスト http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/indexmovie.htm

  ■ カシャリ! ひとり旅


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【カシャリ!ひとり旅】京都迎賓館3 日本の匠の技術の粋を集めた国賓級の人を迎える館 綴れ織による日月の夕映え景色

2023-05-17 12:03:00 | 【カシャリ!ひとり旅】 京都

 

  【カシャリ!ひとり旅】京都迎賓館3 日本の匠の技術の粋を集めた国賓級の人を迎える館 綴れ織による日月の夕映え景色 

 若い頃からひとり旅が好きで、経営コンサルタントとして独立してからは、仕事の合間か、旅行の合間に仕事をしたのかわかりませんが、カメラをぶら下げて【カシャリ! ひとり旅】をしてきました。

 旅は、時間に追われる現実からの開放、明日への糧となります。

 写真は、自分の記録であるとともに、お節介焼き精神から、他の人に情報提供も兼ねてとり続けてきました。

 何を思って撮影したのだろうか? 自分も行ってみたい・・・

 他の人に、そう思っていただける写真を撮りたいと思って、ライフワークとして、続けられるだけ続けてまいりたいです。

 

名所旧跡  グロマコン 経営コンサルタントへの道

 

■■ 京都迎賓館3 日本の匠の技術の粋を集めた国賓級の人を迎える館 綴れ織による日月の夕映え景色

 京都迎賓館(きょうとげいひんかん、Kyoto State Guest House)は、京都市内の京都御苑内東北部にあり、元赤坂の迎賓館赤坂離宮とともに、日本の迎賓館として国の体面を保つ施設です。
 迎賓館は、外国の国家元首や政府の長などの国賓を迎え入れた時に、会食や宿泊等の接遇を行う施設です。

 京都迎賓館は、2005年(平成17年)4月17日に開館しました。「日本の伝統技能の粋を集めた最高のおもてなしの場」と評され、日本の歴史、文化を象徴する京都で、賓客を迎えいれ、日本への理解と友好を深める施設といえます。
 建物は、洋風の赤坂迎賓館とは対照的な和風建築として設計されています。南側を「表」(公の場)、北を「奥」(私的施設)と位置付け、建物の南半分には会議・会談、晩餐、和風会食、管理等の施設が、北半分には賓客の居住・宿泊のための施設が配置されています。
 歴史的景観や周辺の自然環境との調和を図るため、日本の伝統的な住居である入母屋(いりもや)屋根と数寄屋(すきや)造りの外観です。
 「行の庭」と命名された池の周囲に、聚楽の間、夕映えの間、藤の間、桐の間、滝の澗、貴船の間、水明の間や宿泊エリアがあります。
  所在地    京都府京都市上京区京都御苑23
  敷地面積    約2万140平方メートル
  本館構造    鉄筋コンクリート造、地上1階(地下1階)
  延床面積    約1万6000平方メートル


 庭園は、仁和寺・御室御所の御用庭師だった佐野藤右衛門氏が携わっています。庭園の大滝を手掛けたのは、イサム・ノグチ氏の共同制作者でもあった石彫家・和泉正敏氏です。

 玄関前の「真の庭」、館内の中央「行の庭」、賓客宿泊室に面する「草の庭」の3面で構成されています。
 「庭屋一如(ていおくいちにょ)」の現代和風の庭園として、尼崎博正氏の監修により、佐野藤右衛門氏を棟梁とする京都の庭師らにより作られました。
 庭屋一如とは、「庭と建物は一つの如し」という意味です。庭と建物が融合し、自然と調和する境地、庭と建物の調和がとれた生活空間、引いては環境と共生する建物を指します。
 古くから日本の住まいには庭園や坪庭があり、「自然と人は分かち難く、つながっている」という日本人の心情があらわれています。(「庭屋一如」の説明はhttps://shichusankyo.com/theme/garden/をもとに作成)

 長年希望していたものの、なかなか予約が取れませんでした京都迎賓館を訪れるチャンスが偶然のタイミングでやってきました。
 一名の予約キャンセルがあると、迎賓館横の休憩所で、係の人から声をかけられたのです。
 日本の匠の技の結集である京都迎賓館は、想定以上に感動しました。

 建物や調度品には、数寄屋大工、左官、作庭、截金(きりかね)、西陣織や蒔絵(まきえ)、漆など、数多くの京都を代表する伝統技能が活かされ、それを処々で感じ取れます。

■ 夕映の間(ゆうばえのま)
 最大約70名までもが入ることができる大広間です。国際会議にも利用できるように通訳ブースを備えています。壁面には装飾が施されていて、可動式になっているために三分割することができます。
 壁面装飾は、一見しますと絵画のようですが、綴れ織になっています。東面が「比叡月映」(ひえいつきばえ)、西面が「愛宕夕照」(あたごゆうばえ)と名付けられていて、これが部屋の名前の由来となっています。京都の東西を守る山の日月の夕景を表現しています。下図は箱崎睦昌氏により、監修者は内山武夫氏です。
■ アクセス

 京都市営地下鉄今出川駅より徒歩10分

 見学料: 2,000円
 事前予約制
 空きがあると当日受付もあります

 

聚楽の間から夕映えの間に移動します。

折り紙をイメージした照明に「和」を感じます。

夕映えの間

最大約70名までもが入ることができる大広間です。

国際会議にも利用できるように通訳ブースを備えています。

正面

東面

床の間に何気なく置かれた壺

人間国宝・14代今泉今右衛門(いまいずみいまえもん)による

「色絵雪花墨色墨はじき 四季花紋花瓶」(いろえせっかすみいろすみはじき)

という銘の白磁です。

「比叡月映」(ひえいつきばえ)

一見しますと絵画のようですが綴れ織でできています。

下図:箱崎睦昌氏 監修:内山武夫氏

西面「愛宕夕照」(あたごゆうばえ)

下図:箱崎睦昌氏 監修:内山武夫氏

この二幅の綴れ織りの絵題が「夕映の間」の由来です。

近づきますと絵画ではなく綴れ織りであることがわかります。

床の段通

ふかふかではないのですが、

足裏にフワッと感じるのが不思議

照明と格子天井

よく見ますと格子板に星がちりばめられています。

天井が星空をイメージしているのです。

(申しわけありません。原写真ではモアレはないのですが

画面上では、モアレがでて見づらくなっています)

緑の壁面は呼吸をしています。

黒漆螺鈿細工調度品

廊下側からは池を見ることができます。

詳細は「庭園編」でお楽しみいただけます。

 

京都迎賓館1 アプローチ         

  リスト http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/indexmovie.htm

  ■ カシャリ! ひとり旅


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【話材】 昨日05/16のつぶやき ロジカル・シンキング・論理思考に必須の思考手法 階層思考・過程思考・枠組み思考 リスキリング・ミニ講座

2023-05-17 06:52:12 | ブログでつぶやき

 

  【話材】 昨日05/16のつぶやき ロジカル・シンキング・論理思考に必須の思考手法 階層思考・過程思考・枠組み思考 リスキリング・ミニ講座

経営コンサルタントとして感じたことを毎日複数のつぶやきをブログでお届けしています。

もし、お見落としがありましたり、昨日のブログで再度読みたいつぶやきがあるというときに便利なページです。

本日も、複数のブログで、つぶやき済です。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/079b59671ba131cb3beaf0be63a8468e

晴れd3

■ 昨日は、下記のリストのようなことをつぶやきました。

konsarutanto   ◇ 昨日のつぶやき ◇ 

◆【経営コンサルタントの独り言】  次の英文を和訳せよ DO YOU KYOTO? 516

>> もっと見る

 【カシャリ! ひとり旅】を映像にして紹介しています。

   ユーチューブで見

 

 バックナンバー

 


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■【きょうの人】 0517  臨済 臨済宗の開祖、中国・曹州南華県(山東省)出身  気になる人をご紹介

2023-05-17 06:33:00 | 【話材】 きょうの人05月

 

  【きょうの人】 0517 ■ 高杉晋作 久坂玄瑞等とともに尊皇攘夷運動をした長州藩士 ■ 臨済 臨済宗の開祖、中国・曹州南華県(山東省)出身

 

 気になる人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

■ 伊能忠敬 日本の正確な姿を明らかに

 いのう ただたか
 延享2年1月11日〈1745年2月11日〉-文化15年4月13日〈1818年5月17日〉

 江戸時代の商人・天文学者・地理学者・測量家
 通称は三郎右衛門(さぶろえもん)、勘解由(かげゆ)。字は子斉、号は東河。

 上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町小関)の名主・小関五郎左衛門家に生まれました。後に伊能家の養子に入ります。

 忠敬が入婿した時代の佐原村は、利根川を利用した舟運の中継地として栄え、人口はおよそ5,000人という、関東でも有数の村でした。伊能家は、その村民の中でも特に経済力があり村全体に大きな発言権を持っていました。伊能家は酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいたほか、利根川水運などにも関わっていました。

 田沼意次は、幕府の収入を増やすため、利根川流域などに公認の河岸問屋を設け、そこから運上金を徴収する政策を実行しました。明和8年(1771年)11月、佐原村も、河岸運上を吟味するため、名主・組頭・百姓代は出頭するよう通告されました。

 佐原は利根川から十四、五町も離れていて、河岸問屋もなかったのですが、ようやくやりたいという人物が表れ、江戸との交渉役に忠敬は江戸へ出向くなど、村のためにも活躍しました。

 忠敬は、名主にも推挙されたのですが、天明3年(1783年)、浅間山の噴火などに伴って天明の大飢饉が発生し、佐原村もこの年、米が不作となり、そこでも手腕を振るいました。

 一方で、忠敬は暦学に興味を持っていて、江戸や京都から暦学の本を取り寄せて勉強したり、天体観測を行ったりして日々を過ごしていました。長男景孝に家督を譲り、店の仕事を任せるようにしました。次のような家訓をしたためて景敬に渡したといわれています。
 第一 仮にも偽をせす孝弟忠信にして正直たるへし
 第二 身の上の人ハ勿論身下の人にても教訓異見あらは急度相用堅く守るへし
 第三 篤敬謙譲とて言語進退を寛容に諸事謙り敬み少も人と争論など成べからず

 寛政7年(1795年)、50歳の忠敬は江戸へ行き、忠敬は、当時の暦の権威者である高橋至時の弟子となりました。50歳の忠敬に対し、師匠の至時は31歳でした。昔の中国の暦『授時暦』が、実際の天文現象と合わないことに気づいていた忠敬が、その理由を江戸の学者たちに質問したときに、唯一回答できたのが至時だったので師事したという話が伝えられています。

 忠敬は寝る間を惜しみ天体観測や測量の勉強をしていたため、「推歩先生」(推歩とは暦学のこと)というあだ名で呼ばれていたという逸話もあるほどです。師至時は、暦法『授時暦』やティコ・ブラーエやケプラーの理論にも通じていました。

 寛政8年(1796年)9月からおよそ1年半の間、至時は改暦作業のため京都に行くことになり、その間は間重富が指導につきました。その時に天体観測についても教えを受けたのです。観測技術や観測のための器具について精通していた重富を通じて観測機器を購入し、自宅に天文台を作り観測を行いました。取り揃えた観測機器は象限儀、圭表儀、垂揺球儀、子午儀などで、質量ともに幕府の天文台にも見劣りしなかったそうです。

 蝦夷地では帝政ロシアの圧力が強まり、アダム・ラクスマンが根室に入港して通商を求めたり、択捉島上陸事件などが起こったりました。瀑布は、蝦夷地の調査を行わせ、堀田仁助には蝦夷地の地図を作成させました。

 これらを契機として、忠敬にも命が下り、寛政12年(1800年)閏4月19日、自宅から蝦夷地へ向けて出発したのです。辛苦の地図作成作業が始まり、蝦夷地から種子島などまで南下し、文化13年(1816年)まで、17年をかけて日本全国の測量を果たしました。間宮林蔵などの樺太測量などとあわせて、没後、『大日本沿海輿地全図』が完成され、国土の正確な姿を日本地図として明らかにしたのです。

 1818年、74歳の生涯を閉じました。1883年(明治16年)、正四位を授かっています。
 

■ 高杉晋作 久坂玄瑞等とともに尊皇攘夷運動をした長州藩士

 たかすぎ しんさく
 天保10年8月20日〈1839年9月27日〉- 慶應3年4月14日〈1867年5月17日〉

 幕末長州藩の尊王攘夷志士として久坂玄瑞等とともに活躍した武士です。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を討幕運動に方向付けしました。

 文久元年(1861年)には、海軍修練のため、藩の所蔵する軍艦「丙辰丸」に乗船し、江戸に渡りました。神道無念流練兵館道場で剣術の稽古をしました。その年に、東北遊学を行い、加藤桜老や佐久間象山、横井小楠とも交友しています。

 文久2年(1862年)に、藩命で、五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情などを見聞して7月に帰国しました。

 尊王攘夷(尊攘)派が台頭しますと、晋作も桂小五郎(木戸孝允)や久坂義助(久坂玄瑞)らとともに尊攘運動に加わり、江戸・京都において勤皇・破約攘夷の宣伝活動を展開し、各藩の志士たちと交流しました。

 文久2年12月12日には、幕府の違勅に抗議するため、同志とともに品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行いました。

 文久3年(1863年)、幕府が朝廷から要請されて制定した攘夷期限が過ぎますと、長州藩は関門海峡における下関戦争で外国船砲撃を行い、惨敗します。晋作は下関の防衛を任せられ、身分に因らない志願兵による奇兵隊を結成します。

 文久4年(1864年)、長州藩は禁門の変で敗北して朝敵となり、久坂玄瑞は自害しました。英仏米蘭4か国連合艦隊が下関砲台を占拠、晋作は和議交渉を任され、ギリギリの線で交渉を成立させました。

 幕府の権威が失墜し、慶応3年(1867年)に大政奉還、高杉晋作は、下関市桜山で肺結核の療養中、慶応3年4月13日(1867年5月16日)深夜に享年29(満27歳8ヶ月)で死去しました。
 

 

■ 臨済 臨済宗の開祖、中国・曹州南華県(山東省)出身

 臨済義玄(りんざい ぎげん、諡号:慧照禅師)
 ?-867年

 中国唐の禅僧で、臨済宗の開祖。曹州南華県(山東省)出身

 深く仏教を好み、諸方に遊び博く、経論を探り、最も戒律を究めた人です。

 彼の言行は、弟子の三聖慧然によって「臨済録」としてまとめられています。


「語録の王」というあだ名がつくほど、いろいろな言葉を残しているようです。

 人の上に立つ人や経営コンサルタントなど、変革を定着させ、企業の成長を願う人は、「口癖を持つ」ということが大切だと考えます。

 私事で恐縮ですが、「ウラを取れ」というのが私の口癖言葉のひとつです。

 物事というのは、多面性を持っています。噂を鵜呑みにして、それを真実だと思い込んでいる人が多いです。

 あるビジネスパーソンが、濡れ衣を着せられ、左遷されることになりました。

 というような話は、三文小説にもよく出てきますが、そのきっかけが根も葉もない噂であったなどというのもざらにあります。

 私達経営コンサルタントは、顧問先の社員さんからヒアリングをし、それを経営アドバイスの材料にすることがあります。

 その中には、フェイクもあれば、推量もあり、その人の個人的な見解であることもあります。これらをそのまま判断材料にしては、アドバイスの方向が間違えてしまうことがあります。

 そのために「ウラを取る」とか「現場百遍」という、刑事物語に出て来る言葉を、経営現場で私は使います。

 

 

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