SIDEWALK TALK

独墺紀行〈11〉 マリー・アントワネットの実家

ユーゴ人のチボーさんだが、今はザルツブルグにすんでいる。
昨夜は、ひさしぶりの家族との団らんがあったにちがいない。
いつにもまして、ニコニコしている。


チボーさんのバスは、ザルツブルグからウィーンまでの350キロをイッキに踏破した。
ウィーンについては、マリー・アントワネットの故郷という以外、僕はなにひとつ知らない。


marie_antoinette教科書ふうになるが、
マリー・アントワネットは、1755年11月2日、
神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリアの女帝マリア・テレジアの末娘として
ウィーンに生まれた。
1770年にフランスの王太子ルイ(16世)と結婚したが、
これはハプスブルク家とブルボン家のむすびつきを強化するためのものだった。


マリー・アントワネットは、王国行政の人事にしばしば口をはさんだために、
宮廷内部に多くの敵をつくった。
こうした敵の口を通じて、男性関係についてのうわさや、浪費などのスキャンダルが外部にながされ、
民衆の間で悪評がひろがり、国王の失政は王妃のせいにされた。


1789年にフランス革命が勃発すると、
追いつめられた彼女と夫ルイ16世は子どもをつれてパリ脱出をはかり、
フランス北東部のバレンヌでとらえられる事件をおこした。
パリにもどされたあと、王政が廃止され、王家は監獄に幽閉された。
1793年1月にルイ16世は断頭台で処刑され、
マリー・アントワネットも反逆罪のかどで裁判にかけられて死刑を宣告され、
同年10月16日、断頭台で処刑された。


フランス革命は、人類にはじめての国民国家を誕生させたということで、
その功績ははかりしれない。
しかし、僕たち日本人にとっては、そんな歴史的価値よりも、
マンガ「ベルサイユのばら」や宝塚歌劇団によるミュージカルの方が身近だし、とっつきやすい。
その「ベルばら」のヒロイン、マリー・アントワネットの故郷がウィーンであり、
実家がシェーンブルン宮殿である。


schonbrunn今回の旅では、ドイツのロマンティック街道や古城街道で
さまざまなキャッスルやダンジョンをみてきたが、
シェーンブルン宮殿の壮大さと秀麗さには息をのむ思いがした。
こういってはドイツの城たちに失礼だが、文化レベルの差は歴然である。


シェーンブルン宮殿の起源は17世紀後半、
パリのベルサイユ宮殿をこえる壮大なバロック建築として建築が開始され、
1700年にはほぼ完成した。
その後、18世紀中ごろにマリア・テレジアのもとで大改造され、
内部はシノワズリーやロカイユ装飾をふんだんにちりばめた典型的なロココ様式にうつしかえられた。


schonbrunn2外観はマリア・テレジア・イエローとよばれる明るい黄色で、
隣接している庭園は広大で、四季折々の花が咲き誇っている。
3階建てながら、1400以上もの部屋がある。
が、観光客が見学できるのは40室で、
おどろくことに3階はアパートになっていて賃貸している。
40室ながら、一つひとつの部屋の歴史的濃度が濃く、満喫するのには相当な時間を要する。


たとえば「鏡の間」がある。
鏡の間は、モーツァルトが6歳のとき、
マリア・テレジアをはじめとする王家のまえで、クラヴィーア(ピアノ)を演奏した部屋だという。
演奏後、はしゃいで転んだモーツァルトを、4歳のマリー・アントワネットがやさしく助けおこした。
そのとき、モーツァルトはこの少女のあまりのうつくしさに、
「僕がおとなになったら、結婚してあげる」といった。
このことは、彼自身が父に宛てた手紙のなかで書いている。


schonbrunn3こんな具合に、40部屋の逸話を書きつらねるとキリがない。
この稿はシェーンブルン宮殿のすばらしさをつたえたかったのだが、
どうやら僕の文章力ではムリそうである。


フランス革命前夜、庶民には食べるパンもないという訴えに、
マリー・アントワネットは「パンがなければケーキを食べればいい」と言ったという伝承があるが、
こんな浮世離れした宮殿で生まれ育ったら、そういうセリフもいいかねないとも思った。
彼女の名誉ためにいっておくが、この伝承はおそらく事実無根であろう。

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「うんちく・小ネタ」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
2024年
2023年
人気記事