17年前に東北大病院に転院する時、関東逓信病院から伊豆逓信病院に転院する話もあった。
函南にある会社の付属病院で回復期リハビリを継続しながら、同時に温泉療法も行える有力な案だったが、
私もお銀も仙台に早期に転院する案を強く希望したので、この案はボツになった。
私もお銀も早期の仙台への転院を希望したのは、
・闘病が長期にわたることが必至だったので、
まず家族のいる仙台に帰り、それからその後の経済問題とか諸々のことを考えたかった。
・顕著な回復は3ヶ月以内のリハビリとの時間制約は、当時一般には全然知られていなかった。
1種1級の身体障害の身にも関わらず会社復帰ができたのは、
東北大病院の主治医と喧嘩して、宮城病院で崖っ淵のリハビリをする気力と体力があったからだと思う。
あの時、社長は『強運な八兵衛くんの反骨精神』と言っていたけどね。
その気力と体力の源泉(馬ニンジン)は、
『1日でも早く一時帰宅の外泊許可をもらい、家族のいる自宅に帰りたい』にあったと思うな。
仙台に転院後たった1ヶ月ちょっとで初の外泊許可を貰えたので、その感激と嬉しさは今でも忘れられない。
玄関にたどり着くだけでも凄く大変だったけど、やっと玄関廊下に座れた時は、ホント感涙ものだった。
仮に伊豆で切れ目なくリハビリを継続できたとして、果たして会社復帰できる状況まで持って行けたかどうか。
東京での単身赴任7年目の果ての脳幹(橋)出血であったから、
辛く苦しい回復期リハビリを家族と離れてやる気力は、もうどこにも残っていなかった。
函南にある会社の付属病院で回復期リハビリを継続しながら、同時に温泉療法も行える有力な案だったが、
私もお銀も仙台に早期に転院する案を強く希望したので、この案はボツになった。
私もお銀も早期の仙台への転院を希望したのは、
・闘病が長期にわたることが必至だったので、
まず家族のいる仙台に帰り、それからその後の経済問題とか諸々のことを考えたかった。
・顕著な回復は3ヶ月以内のリハビリとの時間制約は、当時一般には全然知られていなかった。
1種1級の身体障害の身にも関わらず会社復帰ができたのは、
東北大病院の主治医と喧嘩して、宮城病院で崖っ淵のリハビリをする気力と体力があったからだと思う。
あの時、社長は『強運な八兵衛くんの反骨精神』と言っていたけどね。
その気力と体力の源泉(馬ニンジン)は、
『1日でも早く一時帰宅の外泊許可をもらい、家族のいる自宅に帰りたい』にあったと思うな。
仙台に転院後たった1ヶ月ちょっとで初の外泊許可を貰えたので、その感激と嬉しさは今でも忘れられない。
玄関にたどり着くだけでも凄く大変だったけど、やっと玄関廊下に座れた時は、ホント感涙ものだった。
仮に伊豆で切れ目なくリハビリを継続できたとして、果たして会社復帰できる状況まで持って行けたかどうか。
東京での単身赴任7年目の果ての脳幹(橋)出血であったから、
辛く苦しい回復期リハビリを家族と離れてやる気力は、もうどこにも残っていなかった。