昨日日曜日にこちらは夏時間に切り替わり、日本との時差は七時間に縮まった。日本時間で午前十一時半の新元号の発表は、午前四時半の起床とほぼ同時に知った。
新元号の「令和」については、まだピンと来ないというのが正直なところ。ただ、万葉集が典拠だと知って興味を惹かれた。さっそく起き出して、手元の参考文献で元号の歴史と新元号の典拠について簡単に情報を収集・整理し、それらをパワーポイントにまとめて、午前中の二年生対象の授業で使った。「ホットな」情報ということで、学生たちも関心を示した。
「令和」は、巻五の著名な「梅花の歌三十二首」の序文の中のはじめのほうの「初春令月気淑風和」(「初春の令月にして、気淑く、風和ぐ」)という一文から取られた。序文全体は三十二首が詠まれた背景や事情を明かす文章である。ただし、「構成や語句には、王羲之の「蘭亭集序」や王勃・駱賓王などの初頭の詩序などに学ぶところが多い。だから、全体にかなりの幻想を思うべきである」(伊藤博『萬葉集釋注』)。
三年生の授業では、「梅花の歌」を緒に、万葉集の時代、梅花が特に大陸からの輸入種として賞翫されたこと、本土在来種の桜に対してはそれと同じ程の関心は万葉集には見られないこと(その桜は、今日広く分布している染井吉野とは違い、日本で最古の品種とされるのは、聖武天皇が三笠山から移し植えたと伝えられる奈良の八重桜。古くは八重咲き品種が多く、花の色も今日の染井吉野よりは濃い淡紅色であったと考えられる)、万葉集に見える梅の歌約百二十首はそのほとんどすべてが白梅を詠み、中古でも紅梅は別扱いで、紅梅と断るのが通例であること、桜が春の花を代表するものとして愛好されるようになったのは平安時代以降であること、その華の美の「儚さ」と散り際の「潔さ」などによって日本文化を象徴する花であるかのように喧伝されるようになるのはずっと時代が下ってからのことなどを十五分程でさらっと説明した。
その上で、現代の映画作品などに見られる桜花に託された象徴的意味を、いくつかの映画やドラマの何シーンかを見せながら、読み解く試みを行った。〈儚さ〉や〈潔さ〉より、すべての命が繋がる〈生命〉、生きとし生けるもの〈再生・転生〉、咲き散ることの〈永遠回帰〉など、それらの現代作品の中の桜のイメージは、これはあくまで私見であると断ったうえでのことだが、むしろ初期万葉集における〈花〉のイメージに近いことなどを話す。
この三年生の授業は、文法的・構文的な説明を除いて、すべて日本語で行うのだが、さて、私の言わんとしたことはどこまで学生たちに伝わっただろうか。