なぜ私は『蜻蛉日記』の中の連綿たる苦悩の記述に抗い難く心惹かれるのだろうか。それが道綱母の「身の上」への同情によるものでも共感によるものでもないことは確かだ。我が「身の上」とはどうにも引き比べようもない。複雑微妙な心理描写の肌理に引き寄せられるのでもない。
この問いへの答えを見出すための手がかりが、3月30日の記事で取り上げた西郷信綱の『古代人と夢』の中の次の一文の中にある。「時代通念を括弧にいれ、あるがままを記すというこうした判断中止に到達せざるをえないところまでおそらく図らずもやって来たのである」(178頁)。西郷信綱自身『古事記の世界』(1967年)の「あとがき」に書いているように、西郷はメルロ=ポンティの『知覚の現象学』に深い衝撃を受けている。そのことと上掲引用文の中で「括弧にいれる」「判断中止」(「判断停止」という語も使われている)などの表現が使われていることは無関係ではない。
自ずと疼くように自己触発的に己の裡において自己生成し続ける感情に対して、それをそれとして己のこととして苦しみつつ、「ありのままに」記述しようとする態度は、もちろん直ちに「現象学的」などとは形容できない。だが、私はここで受苦(souffrance)に生命の本質を見るミッシェル・アンリの生命の現象学を思い起こさずにはいられない。
この受苦に関わる問題については、博士論文で詳細に検討したことがある(2014年7月16日の記事を参照されたし)。受苦は、諸々の苦痛(douleur)とは、その存在論的次元において区別されなければならない(この点については、2018年6月27日と7月9日の記事で話題にしたが、以来私の哲学的研究の懸案事項の一つである。6月末のイナルコでの発表でも、西田とアンリとの対質を通じてこの問題を考察する)。
この受苦の実存的経験のありのままの記述たりえているからこそ、『蜻蛉日記』を読むことは、そこに顕現している〈生命〉の本質に触れることを私たちに可能にし、だからこそ、千年以上の時を超えて、私たちに、今、ここで、感動を与えるのではないだろうか。少なくともこの私においてはそうである。