『岩波古語辞典』によると、「初む」は「染む」から来る。「(染色してすっかり変わるように)前と違った状態になる」とし、例として、万葉集巻十「春の雑歌」の一首「春雨に争ひかねて我がやどの桜の花は咲きそめにけり」(一八六九)を挙げている。そして、この意味の「ソメはハジメ(始)と似るが、ハジメは片端にことがおこり、それが順次続いて行く意で、やがて終りに達する。ソメは、一度そうなったら、その状態からもとへ戻らずに、ずっと続く意味をもつ点に相違がある」と注記する。
しかし、この歌がこの説明の例示として適切かどうか、やや疑問が残る。歌意は、「春雨に逆らいかねて、我が家の庭の桜の花は、ようやく咲きはじめた」(伊藤博『釋注』)ということであって、咲くことがずっと続くという意は弱いように思う。それに、「桜の咲くことと春雨の降ることとを取り合わせた歌は珍しい」(『釋注』)のであってみれば、春雨によって引き起こされた開花の始まりに強意が置かれていると読むほうが素直ではなかろうか。
「一度そうなったら、その状態からもとへ戻らずに、ずっと続く」という意味がはっきりと出ているのは、むしろ『古今和歌集』の紀貫之の次の歌であろう。
咲きそめし時よりのちはうちはへて世は春なれや色のつねなる(巻第十七・雑歌上)
この歌には「屏風の絵なる花をよめる」という題詞があり、歌中の「世」は、屏風絵の中の世界である。
散りそむ桜といえば、西行の次の歌が思い出される。
散りそむる花の初雪降りぬれば踏み分けま憂き志賀の山越え(『山家集』上・春)
この歌の場合も、「そむ」には、散り始めたら、もとへは戻らず、ずっと続くというという意が込められていよう。さらに言えば、「初む」に「染む」も掛けられているようにも読める。雪のように白い桜花が地を染める如くに散り敷いているので、それを踏み分けていくのはつらいよ、と。
散る桜と咲きそむ桜とが対比されているのが『源氏物語』「椎本」の次の一節。
はるばると霞みわたれる空に、散る桜あれば今開けそむるなどいろいろ見わたさるるに、川ぞひ柳の起き臥しなびく水影などおろかならずをかしきを、見ならひたまはぬ人は、いとめづらしく見棄てがたしと思さる。
桜花ではなく、糸萩(枝の細い萩)の花だが、その花のほんのすこし散り初めた満開の風情に比べて、自らの若き日の美声(「鶯舌の囀り」)は、「託言ばかりに散り初むる、花よりもなほ珍しや」と語るのは、謡曲『卒都婆小町』のシテ、老女となった小野小町である。