映画『博士の愛した数式』を一昨日昨日と二度観た。
この映画が公開されたのは2006年1月のことだから、最近作とは言えない。何年か前に、ネット上で低画質版だが一度観たこともあった。しかし、そのときは、いい映画だなと思っただけで、特別深い印象は持たなかった。今回は、Amazonプライムで公開中なのを VPN を使って最高画質でじっくりと観た(ただ、入会している VPN のストリーミング速度が遅いせいなのか、始めと途中何箇所か、画質が著しく低下する。これはこの映画に限ったことではなく、出だしは必ず低画質。一二分で最高画質にはなるのだが、その後で最初に戻って見直しても結果は同じ)。
小川洋子の原作が出版されたのは2003年。その評判は知っていたが、読んだことはなかった。今回、映画を見てから、電子書籍版で読んだ。ただ、この記事では映画の話をする。原作とその映画化作品とを比較して云々することにはそもそも興味がない。それぞれにいいところがあればそれでよいではないかと思う。
映画には映画ならではの仕掛けや伏線的な小道具があって当然だろう。この映画にももちろんある。そのうち特に印象深かったのが博士と兄嫁が薪御能を観劇している場面である。
映画のはじめのほうに、家政婦の杏子(深津絵里)が初めて博士の兄嫁(浅丘ルリ子)宅にあがる場面がある。そのとき、兄嫁は、義弟である博士(寺尾聰)の記憶障害について、「義弟(おとうと)の記憶の蓄積は、一九七五年の春、二人で興福寺に観に行った薪能の夜で終わっております」と言う。ところが、原作では「義弟の記憶の蓄積は、一九七五年で終わっております」となっており、具体的な時と場所について兄嫁の口から説明されることはない。映画では、終わりの方に、博士と兄嫁が二人で観に行った薪能の回想場面(一九七五年五月十一日ということだろう)があるが、これも原作にはない。曲は『江口』。
どうしてこの曲が選ばれ、なぜこの場面が三分二十秒も続くのか。なぜそこまでする必要があったのか。それが理解できずに、この場面は長すぎて退屈だと貶している人もいるが、何か理由がなければ、あのような演出はありえないだろう。
明日の記事では、この問いについて私なりの答えを示す。