内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

音読のすすめ ― 体は家の中に閉じ込められていても、心は文学の世界を遊行できる

2020-04-04 20:20:41 | 雑感

 遠い昔、はじめて大学生になった頃(こんな変な言い方をするのは、その後私の学生時代は幾多の紆余曲折を経つつ、とても長いものになるからである)から朗読が好きだった。子供のころからラジオの朗読を聴くのが好きだったのが高じて、自分でも声に出して読んでみたくなったのである。
 とはいえ、人様に聴かせるほどの代物でないことも自分でよくわかっていた、というか、思い知らされた。学部で受講していた授業の一つに中世文学講読があった。先生は高名な中世文学の専門家だった。先生は毎週必ず学生に原文を読ませる。出席者は三十名前後だったろうか。その中に一人、朗読が抜群にうまい女子学生がいた。彼女が読むと、教室がその声に聴き入ってしまう。先生も絶賛していた。
 その体験が教えてくれたことは、当たり前と言えば当たり前のことなのだが、作品は声に出して読まれたものを聴かなければそのほんとうのよさをよく味わうことはできないということである。紙の上に印刷された文字を目で追っているだけでは感じることができないテキストの肌合いや温もりがある。それは身体的な感覚である。それは声になったテキストとのほとんど官能的な触れ合いでさえある。
 以来、音読は自分なりに実践している。それは日本語でもフランス語でも同じ。気に入った文章があると、必ず大きな声で読む。それはそれぞれの文章の呼吸を感じ取ることを可能にしてくれる。
 この自分の体験に基づいて、常日頃、学生たちには音読の大切さを繰り返し訴えているのであるが、なかなか理解してもらえない。今更音読なんて、小学生じゃあるまいし、と彼らは思っているのかもしれない。ほんとうにそうだとしたら、それはとても残念なことだ。
 昨日は、高校の現国の授業で初めて読んだ中島敦の『山月記』全文を声に出して読んでみた。硬質な漢語の響きと彫琢された簡潔な文体の中に、深く鬱屈した情念、身を食む後悔、自己へ矜持、自己への絶望、自己喪失の恐怖、人間存在の悲劇性などが鮮やかに描き出されていくのが声に出して読むとより生き生きと感じられる。