内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「終末論的に平常底」― 「非常時」をよく生きるための西田哲学

2020-04-18 23:59:59 | 哲学

 一昨日の記事で西田幾多郎の最後の完成論文「場所的論理と宗教的世界観」がどのような日々の中で書かれたかを瞥見した。その時期のことについて一通りの知識は何十年も前からもってはいた。今回あらためて日記や書簡を読み返したのは、西田がどんな覚悟をもってこの論文の一字一字を書きつけていったのか、その当時の心意を少しでもより深く感じ取りたいと思ったからである。
 この論文の第四節の最終段落に「平常底」という言葉が出て来る。最終節である第五節には繰り返し出て来る。禅語としての「平常」に由来する。非常に対する平常ではない。西田自身が言っているように、常識でもない。平常底とは日常の根底に潜む何か実体的なものを指すのでもない。「我々の自己に本質的な一つの立場」だと西田は言う。
 西田はこの「立場」という言葉を初期からよく使っているが、私たちが今日日常語として使う意味に解することはできない。例えば、「他人の立場に立って考えてみる」などのように、相対的に他の立場から区別されるような限定的な立場のことではない。むしろ西田が言うところの「すべてはそこからそこへ」の「そこ」である。つまり、他から区別されるような立場すべてがそこにおいて成り立つところのことであるから、実は「立場」という言葉は不適切だとさえ言ってもいいくらいなのだ。
 西田哲学固有の立場ということとも違う。もちろん西田独自の考え方という意味で、西田哲学に対して批評的に立場という言葉を私たちが使うのはこっちの勝手だが、西田が平常底を立場というときはそういうことが問題なのではまったくない。
 難解だが次の一節を読めばそれがわかる(引用は岩波文庫『自覚について 他四篇 ― 西田幾多郎哲学論集III ―』に拠る)。

[私が此に平常底というのは、]絶対的一者の自己否定的に個物的多として成立する我々の自己の、自己否定即肯定的に、自己転換の自在的立場をいうのである。我々の自己はこの点において世界の始に触れるとともに常に終に触れているのである。逆にまたそこが我々の自己のアルファであると同時に、オメガであるということができる。一言でいえば、そこに我々の自己の絶対現在的意識があるのである。故にこれを深いといえば何処までも深い、そこに世界の底の底までも徹するということができる。これを浅いといえば無基底的に何処までも浅い、表面的にすべてを離れている、あるいはすべてを包んでいるということができる。故に私は終末論的に平常底というのである。我々の歴史的意識というのは、何時もかかる立場において成立するのである。それは絶対現在的意識であるのである。

 明日の記事でこの一節の注解を試みる。