内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「斬り捨て御免令」を提言する ― K先生の『陽春幽閉日記』妄想篇より

2020-04-08 09:26:02 | 雑感

 K先生は先月17日の外出禁止令発令以来『陽春幽閉日記』を毎日律義につけている。日記であるから出版の予定はない。今日の記事をこっそり盗み読みした。あの謹厳実直の権化のような先生がこんな愚にもつかないことも書くのかと余(って誰)は一驚した。以下、無断で全文引用する。

 鎌倉時代中期の教訓説話集『十訓抄』(1252成立)中の「行基菩薩遺言誡多言事」に「口は是禍の門也、舌は是禍の根也」とある。ここからいつか「口は禍の元」という俚諺も生まれた。
 軽率な言動はお互い慎みたいものである。罰が当たるやもしれぬ。何事も因果応報じゃ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。が、軽口をたたくこと、心の健康のために許されたし。
 以下に述べるのは、まったくもって「時局にふさわしくない」、太平洋戦争末期であれば治安維持法に引っかかり、特高にしょっ引かれるような「危険思想」である。
 外出禁止令が発効してからも官憲の言うことをきかずに外出するフランス人らしいフランス人たち(C’est très français, non ?)の映像をテレビで観ながらこう考えた。
 これはもう罰金や禁固刑なんて生ぬるい措置ではだめじゃ。言うことをきかない連中は即銃殺するしかない。あるいは、街中のいたる所に「人斬り仁左衛門」(って、なんでこの名前なのかは知らぬが)を潜ませておいて、禁令を犯している連中を見かけたら、背後から音もなく摺り足で近づいて「御免!」と一言、一刀のもとに斬り捨てることを許可する斬り捨て御免令を発令するしかないね。
 とまあ、およそ良識ある大学教師にあるまじき発言をあるZOOM飲み会でしてしまった。もちろん聞いている相手は笑って聞き流してくれたけれど、ほざいた本人は後で独り、ちょっと不謹慎過ぎたかなと殊勝にも反省した次第である。
 その直後、それみたことか的な「しっぺ返し」があった。夢の中で私が銃殺されてしまったのである。細部は忘れた。時は太平洋戦争末期、所は激しい空襲に見舞われている東京である(昨日の録音授業のテーマ)。憲兵に捕まって(理由はわからない)、問答無用で銃殺されたのである。銃殺される直前はさすがに恐怖で顔が引きつっていた(と思う)。憲兵が引き金に指をかけたとき、世界中の音が消えた。銃殺の瞬間、銃声だけが虚空に響いた。銃殺された本人である私はといえば、痛くもなく、血が流れるわけでもなく、ただ目の前が真っ暗になり、すぐに目が覚めた。
 「くわばら、くわばら」
 ちなみに、『日本大百科全書(ニッポニカ)』によると、この呪文の起源は平安中期にまで遡る。

落雷を避けるための呪文。雷鳴のするときに「くわばら、くわばら」と唱えると、雷除けになるとされる俗信で、転じて桑の木にもその力があるとされた。起源については、908年(延喜8)菅原道真の霊が雷電となって京都をたびたび脅かした際、かつて道真の所領であった桑原の地には一度も落ちなかったことに始まるという説や、和泉国に桑原という所があり、あるときそこの桑原井という井戸に雷が落ち、村人たちが蓋をして閉じ込めたので、雷は「以後けっしてここには落ちない」と約束して天に帰ったのによる、などの説が知られる。

 今日から、心を入れかえ(トイレの洗剤の詰め替えのようなわけにはいかぬが)、外出禁止令を粛々と遵守し、外出を許された一時間を御上に感謝しつつ、しっかり腕を振ってウォーキングをし、残りの時間は授業の入念な準備に心身を捧げる、そういう者に私はなります。