内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

難問にチャレンジする学生たち

2020-04-12 23:59:59 | 講義の余白から

 授業の準備には、単なる職業的義務感からだけでなく、大げさに聞こえるだろうが(いつものことです)、哲学的な使命感をもって取り組んでいる。現在のような未曽有の危機的状況にあって、自分が最も大切だと考えていること、みなが今考えなくてはいけないこと、そしてこれからの世界について考えておかなければならないことを学生たちに伝えなくて教師と言えるかと本気で思っている。まあ、こちらだけで空回りしているところも多々あることは喜んで認める。
 だが、少なくとも、三年生の「日本の文明と文化」の録音授業で毎週私が学生たちに語りかけていること、そしてそれに基づいて課す課題は、学生たちによって、単に一科目の課題としてではなく、問題そのものとして真剣に受け止められていることは、送られてくる小論文を読んでいてほぼ確からしいことだと言える。もちろん、全員がそうだとは言えないが、九割以上は、月曜日に提示された課題レポートをその週末の土曜日夜にまでにはメールの添付書類として提出してくれる。
 問題自体がかなり高度な概念的思考を要求する難易度の高いものなので、彼らにとってそれに対する答えをフランス語で考えることがすでに難しい。その答えを習い始めて二、三年の日本語で書けというのだから、無茶ぶりもいいところである。ところがその「挑戦」を彼らは正面から受けて立っているのである。
 言いたいことはいろいろあるのにそれにふさわしい日本語が見つからなくてもどかしい思いを皆多かれ少なかれしていることは文面から容易に察することができる。それらの文章を彼らの言いたいことにより相応しい日本語に直すのが私の仕事だ。
 彼らの言いたいことが一読してよくつかめないときは、何度も読み直し、できるだけ整合性のある文章になるように添削する。しかし、そもそも彼らの元の文章そのものに一貫性が欠けている場合もあり、その場合は議論としての不整合性をコメントで指摘して、添削は文法的・語法的なレベルにとどめる。それに直しすぎると、彼らの個性が失われてしまう。表現として多少ぎこちなくても誤りとは言えない場合、そのままにしておく。
 昨晩零時が締切りだった宿題の課題は、「社会的存在としての私たちの行動の倫理的原則として、〈和〉でもなく〈寛容〉でもない、第三の原理はありうるだろうか。あるとすれば、それはどのような原理だろうか」であった。この課題に対する小論文からそのごく一部を紹介しよう。

 社会で尊敬されること、他の人々や私たち自身を尊重することは、個々の個人だけでなく社会全体の精神的健康と幸福を改善するための鍵です。

 私たちの自尊心を認識することは、他者を尊重するための重要な足がかりです。 自分を大切にしないとしたら、誰を、または他に何を重視し始めることができるでしょうか。
 お互いへの真の敬意が平和な生活につながります。多様化する世界のためにお互いの違いを尊重し、受け入れなければなりません。これはそれをさらに美しくします。

 倫理的な行動は私たちの意志に依存しないことを覚えておくことが大切です。私たちの倫理は個人に固有のものではなく、エミール・デュルケームによって指摘されているように、人間の大部分は相互に依存しています。だから、コンフォーミズムは私たちの行動と考え方を決定づけ、したがって私たちの倫理もそれに影響されています。

 ある人が他人に危害を加えてしまったとき、実際には自分の人間性に危害を加えてしまったことになる。つまり、負傷したのは自分なのである。

 「平等は皆に同じ靴を与えるのに対し、公平は皆に合う靴を与える」と言うことができる。社会の全員が違いや困難を抱えていることを認めることが重要だと思う。その現実に応対するために、第三の原理「公平」は、和と寛容の両方を達成する唯一の方法だと思う。