「現代文学」の授業は文学史的説明と作品鑑賞のニ部に分けている。文学史的説明はテキストとして採用した『新日本文学史』(文英堂)の本文をそれこそ一字一句ゆるがせにせずに読むことも兼ねている。
例えば、「新戯作派」という言葉が出てくれば、戯作が江戸時代にどのようなジャンルの読み物を意味していたか説明するとともに、ただ école とか groupe とかフランス語に訳しただけでは伝わらない「派」という言葉のニュアンスなどもかなり事細かに解説する。そんなことをしているから一回の授業でニ頁くらいしか進まない。
それに、学生たちから日本語理解に際しての問題点に関して興味深い質問がときに出る。それはいわゆる「いい質問」とはちょっと違っていて、教える側に「なるほど、そこで躓くのか」と気づかせてくれるような質問である。
例えば、今日の授業では、太宰治の『斜陽』の粗筋紹介を読んでいたとき、「弟は、人間どうしが争わなければ生きていけない社会に絶望して自殺するが、姉は既成道徳を変革して生きていこうとする。」という一文について、「弟は自殺したのですか?」という質問があった。日本人にとっては、高校生であっても、いや、中学生であっても、いやいや、小学生にとってもかな、それは自明だと思われるところだが、この現在形(と一応呼んでおく)「する」(あるいはその他の動詞の現在形)は、学生たちにとってはとまどうことがけっこうある形なのだ。
というのは、動詞の現在形は、習慣あるいはこれから起こそうとする行為・発生する事態を示すとまず習うからである。上掲の文では、前者に該当しないことは自明だが、後者をそのまま当てはめて、これから自殺するのだから、まだしていないのか、あるいはする前に作品は終わるのかと、質問した学生は思ってしまったのだろう。
フランス語でも、ある作品の粗筋を紹介する際、作品中に発生する事態・事件を叙述するために現在形を使うのはごく普通のことだから、それほど理解に困難を覚える箇所ではないはずなのだが、この質問から見えてくるのは、学生たちのすべてではないにしても、その何割かは、既習事項をそのまま当てはめて理解しようとする強い傾向があり、その当てはめでは理解できないときに、それを超えて推論することが難しいということである。
この文に関して、もう一点指摘できることがある。それについて質問が出た訳ではないが、出てもおかしくないところがある。それは、「弟は」の後には読点があるのに、「姉は」の後には読点がないことである。この文に限って言えば、読点があってもなくても文意に関して誤解の余地はないが、ならば、なぜあったりなかったりするのか、という疑問である。
これは答えるのが結構厄介な問いである。「どっちでもいい」では答えにならない。強いて説明するとすれば、読点の後の構文的な複雑さの違いを指摘するがことできる。「弟は」が支配する前半には、四つの動詞が含まれており、最初の二つの動詞「争う」と「生きる」の主語は「人間どうしが」であり、「社会」までの名詞句の修飾部内で条件節・帰結節として機能しているのに対して、「絶望する」と「自殺する」は提題「弟は」に対する述語動詞である。「は」による提題から述語動詞に至るまでに名詞句内の動詞二つを超えなければならないこの「遠さ」が読点の導入の理由であると一応は説明できる。
しかし、読点があってもなくても文意に差異が生じないのだから、この読点は必ずしも必要ではなく、より読みやすくするために導入可能な一つの記号という域を出ない。
いつも日本語のなかだけで生活している環境では、日本語研究者でもなければ気にもとめないような些末なことが、日本語理解の小さな躓きの石として見えてくるのがこの稼業の因果なところである。それに、老婆心からそれらの小石をあらかじめ取り除いてしまうのは必ずしも学生たちのためにならない。躓くだろうなとわかっていて躓かせ、そこで考えさせるのも教師の役目であろうから。
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