実に、破れかぶれというか、自由狼藉というか、傍若無人というか、学部ニ年生の仏文和訳の問題として、主に哲学書から課題文を引っ張ってきている。原文が仏文の哲学書とはかぎらず、仏訳を使うこともしばしば。
先週の授業の初っ端、「さあ、皆さん、ごく単純な短文から始めましょうね」と、にこやかに優しい口調で語りかける。その直後、スクリーン上には « L’homme est condamné à être libre. » という一文がゆっくりと立ち現れてくる。そして、Jean-Paul Sartre, L’existentialisme est un humanisme とスクリーン右下に出典が表示される。
教室にどよめきが起こり、何人もの顔に「な、な、なんで?」と書いてある。どこかで聞いたことあるなあくらいにはこの文を知っていても、まさか日本学科の仏文和訳の授業でお目にかかるとは夢にも思わなかったであろう。
この有名な一文、日本語を学びはじめて一年半程度の学生たちにはもちろん訳せない。「人間」も「自由」も単語としては知っていても、 « être condamné à » にはまったく歯が立たない。
「刑に処す」「刑を宣告する」という成句、あるいは「強いる」という動詞を与えても、半数くらいしか正しく訳せない。受動態にできない学生もいるし、「される」ではなくて「されている」としなくてはならないことがまだよくわかっていない学生もいる。そのレベルの学生は、 « Je sais / je connais » も正しく訳せず、「知ります」としてしまう(そういう学生には、「じゃあ、まだ知らないんだねぇ」と嫌味を言うことにしている)。それどころか、「自由」と「刑」をどうつなげるかさえ怪しい学生もいる(今まで何勉強してきたん?)。
それはともかく、この最初のサルトルの一撃はかなりインパクトがあったようで、教室が活気づいた。
ここは「攻め」の一手である。
« Comment escaladerai-je le mieux cette montagne ? » — Continue de monter et n’y pense pas !
このアフォリズムを誰が書いたか伏せて示せば、さして面白くもない文に見えてしまう。ところが、出典がニーチェの Die fröhliche Wissenschaft(『喜ばしき知恵』あるいは『愉しい学問』)の仏訳 Le Gai Savoir だよと言うと、「おおー」と乗ってきた。
「山を登る」か「山に登る」か、どっち? ついでだけれど、「坂を登る」とは言うのに、どうして「坂に登る」とは言わないの? « le mieux » はどう訳す? 「登る」と「続ける」はどう組み合わせる? 「続ける」の命令形は? これらの問いかけに対して、次から次へと挙手して、訳を試みてくれる。
« Si tu veux être aimé, aime [Si vis amari, ama]. » セネカである。ラテン語原文付きである。胸に染みる一文である。さて、「愛する」の受動態と「たい」はどう組み合わせる? 文の前半を条件節にするための接続助詞は? 「愛する」の命令形は? 「愛せ」はちょっときつく響くかもだから、もうちょっと表現を柔らかくするにはどう変える? こちらの矢継ぎ早の問いかけにリズムよく答えが返ってくる。
答えに応じて、文法的説明を展開する。ずばり正解よりも、かわいく間違えてくれたほうが説明を面白くできる。そうとわかると、間違いを恐れずにどんどん挙手して答えてくれる。
一時間あまりで十の短文を訳しただけだったが、上等な食材を使って、香りよく美味でスパイスも効いた色とりどりのオードブルを作る料理教室で自分たちの試作品(まだ出来損ないだけど)を食したかのような楽しさを味わい、満足感とともに学生たちは教室を後にした……と思う、いや、そう思いたい。
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