昨日紹介した『医療とケアの現象学』の最終章「ICUナースによるICU での患者経験から 交錯する患者の視点と看護師の視点」で村上靖彦氏が詳細な考察を行っているのは、急性・重症看護専門看護師としてICUでの勤務経験が長い宇都宮さんが突然の病で(知り合いのいない病院の)ICUに35日間入院したときの経験である(この宇都宮さんは『ケアとは何か』にも登場していて、このときの入院が髄膜炎によるものであることがわかる)。
インタビューには、ICU入院経験のなかで宇都宮さんが患者として経験したこと、現役の看護師としての視点から気づいたこと、退院後に看護師として反省的に考えたことなどが交互にあるいは交錯した仕方で語られている。それらの宇都宮さんの発言を丁寧に解析していくことで、村上氏は看護をめぐるいくつかの重要な問題を浮かび上がらせていく。
入院した宇都宮さん自身が看護師として高度な技能と豊かな経験をもっている方だけに、自分が患者として経験したICUの「非人間な」環境への患者の視点からの批判的な眼差しは厳しい。「刑務所のように、時間になったら電気をつけられ、時間になったらぱちんと切られるんですよね。」(240頁)
そこから看護がどうあるべきかという帰結が引き出される。一つは、ICUで患者が失っている自然なリズムに対して注意深くあること。「非人間的な所」であるだけに、「人間性的なところ」を患者は求めているから、それに具体的に応える。例として挙げられているのは、朝、患者さんに蒸しタオルでリフレッシュしてもらうようにすること。
この他にも重要な問題点が指摘され、それぞれに興味深いのだが、私自身が特に注意を引かれた一点のみを今日の記事では述べておきたい。
それは「人格としての自己性が失われる環境」と題された節に見られる指摘である。ICUがオープンスペースということもあり、看護師間のやり取りでは、患者を名前で呼ばず、ベッドの番号で指す。これは宇都宮さん自身過去にしていたことだという。
この点について、村上氏は、「単に番号で呼ばれるという非人称化が生活を剥奪して「患者」化するだけでなく、どの番号で呼ばれているのかもわからないという二重の非人称化が妄想を賦活する」と指摘している(248頁)。ただ、この文に付された脚注で、プライバシー保護という意味もあるから、一概に良し悪しは決められないと断っている。
たとえICU入院中という限られた期間であれ、自分の氏名が剥奪され、番号によって置き換えられるという経験は相当に深いショックを患者に与えるのではないかと想像する。人からその名前を剥奪し番号化することは、各自の個別性を否定し非人称化する。それは深刻な精神的暴力でありうる。だからこそ強制収容所で囚人たちはすべて番号で呼ばれていたのだ。
まったく別の文脈だが、名前で呼ぶことの意味を逆の側から例証している話を聞いたことがある。農業高校で豚の飼育実習をする際、飼育される豚に名前を付けることは禁じられており、豚たちはすべて番号で呼ばれるという。その理由は、名前を付けると「情が湧いて」しまい、最終的に屠殺することがそれだけ大きな苦痛になるからだという。
上掲の宇都宮さんのICUでの経験は、名前を剥奪あるいは名前をそもそも付けないで番号化することで、皆それぞれに自分の名前を持っており、お互いに相手をその名前で呼ぶというごく当たり前のことの基底にある相互関係性・コミュニケーション性が損傷を受けることを例示している。
貴方の意見に涙しました、合理性よりなにより人間性が優先されるべきですよね!