上代から近世に至るまでの千数百年に渡る日本文学史を通じて、いつの時代にも見出されるのが〈人待つ女〉の形象である。というよりも、この形象が日本文学史における典型的な恋(孤悲)のあり方として、詩歌・物語・日記・演劇などにおいて繰り返し表象されてきた。例は、『古事記』、『万葉集』、『伊勢物語』、『源氏物語』、『今昔』、『平家物語』、謡曲「井筒」「砧」など、枚挙に暇がなない。
作品中の登場人物として〈人待つ女〉が詠われあるいは語られるだけはなく、作者自身が〈人待つ女〉である場合もある。『蜻蛉日記』はその代表である。〈人待つ女〉の懊悩が本人自身の手によっていわば内側から綴られているこの不朽の傑作が十世後半に書かれた作品であることに今あらためて驚く。
〈人待つ女〉というテーマは、上代から繰り返し表現されてきたというだけではなく、過去の作品における〈人待つ女〉の表象が次の時代に想起され、変奏され、差異化され、重層化されていく。その過程を上代・中古・中世・近世と辿ることによって日本古典文学の特質の一つを浮かび上がらせることができる。
今週木曜日の近世文学史では、上田秋成『雨月物語』を取り上げ、その一部を読む。読解のために選んだ作品は「浅茅が宿」である。この名作もまた〈人待つ女〉の系譜に連なる作品である。しかし、言うまでもなく、過去の古典の中の〈人待つ女〉の形象の単なる変奏ではない。井上泰至『雨月物語の世界 上田秋成の怪異の正体』(角川選書、2009年)の最終段落を引く。
勝四郎と妻の亡霊との一夜は、現代なら幻聴・幻想の類として位置づけられよう。幻聴や幻想は、孤独な心にこそ起こりがちである。「死」にまつわる幻聴や幻想に、人間がもつ本質的な孤独や悲劇を見つつも、廃墟についてはその情に寄り添わない文体でこれを描いたからこそ、かえってその悲劇の美は我々に人間の孤独と哀切を訴えかけてくる。そこには、孤独から愛への単純には向かい得ない秋成の生い立ち、ものが見えすぎる秋成の理性が透けてみえる。美が、美学者が言うように、死の匂いを伴うものだとしたら、美への没入と相対化は、「死」をイメージする廃墟を形象化する場合にも、同様に働いたというべきだろう。死者を送る文学の伝統は、日本の場合長く、かつ幅広い。秋成は廃墟を冷ややかに描ききることで、その苦く切なく哀切を読者に訴えて、その流れの中に、「極北」の地位を築いたのである。
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