島薗進氏の『ともに悲嘆を生きる』を読んでいて、「悼む」とはどういうことなのか、気になるようになった。同書には、天童荒太の小説『悼む人』とそれに基づく映画作品について数頁にわたる紹介と著者による考察が示されている。そこを読めば、小説と映画のなかで「悼む」とはどういうことなのか、一応の回答は得られる。小説からの引用箇所を以下に孫引きする。
人が亡くなった場所を訪ね、故人への想いをはせる行為を静人は初めて「悼む」と表現した。/言葉の意味を問うと、冥福を祈るわけではなく、死者のことを覚えておこうとする心の働きだから、祈るより、「悼む」という言葉が適切だと思って、と、ぼそぼそと力のない声で答えた。(『悼む人』上、二五五頁)
確かに、「悼む」と「祈る」は違う。しかし、島薗氏が言うように、「「祈る」ときには、応答する存在が前提されている」というところに両者の違いがあるのだろうか。そもそも「祈る」ことがそれに応答する存在を前提しているとは限らない。人の死に際して、「冥福を祈る」という表現がよく使われるが、この「祈り」に応答する存在を前提してはいないだろう。
しかし、だからといって、この表現が単に形式的に使われているとは限らない。自分は無宗教だと思っている人でも、この表現を軽々しく使っているとは限らない。祈るのに資格も権利も必要ないだろう。自分がその実現にはまったく無力だとわかっていても、それを心から願わずにはいられないときに人は自ずと「祈る」のではないか。
「悼む」は「痛む」と同根である。「悼む」ときは、心が「痛む」。ただ悲しむのとは違う。人の死に際して、「悼む」とき、心が痛みはするが、泣き叫ぶなどあからさまにそれを表には出さない。手元にある辞書はどれも似たりよったりの語義しか示していないが、『三省堂国語辞典』(第八版)には、「人などの死をおしみ、静かに心を痛める」とあり、二つの点で他の辞書と異なっている。「人など」としてあるから、人以外に対しても「悼む」ことがありうるという含みがある。「静かに」とあるから、大声を上げて泣いたりはしないということだろう。だからといって、心の痛みが小さいわけでも、悲しみが浅いわけでもないだろう。
ただ、まだ一つ気になることがある。これは私の個人的語感に過ぎないのかもしれないが、身内の死に際しては「悼む」とは私は言わない。例えば、自分の母親の死を「悼む」と言うのには何故か違和感を覚える。皆さんはどうだろうか。
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