島薗進氏の『ともに悲嘆を生きる グリーフケアの歴史と文化』(朝日選書)のなかにも「予期悲嘆」に言及されている箇所がある。そこでは、「相手が生きていても、すでに悲しみが始まっている」ことが「予期悲嘆」だとされている。ところが、そこに挙げられている例のなかには、ちょっと不適切ではないかと思われる例もある。言い換えると、なにか悲嘆の「安売り」ではないのかと私には思われる例も挙げられている。「試験に失敗して、自分の希望を諦めなくてはならない」程度のことも「予期悲嘆」なのだろうか。その希望の喪失が本人にとっては大切な人との決定的な別離に匹敵することもあるということだろうか。
この点は措くとして、以下の段落には共感を覚える。
悲しむことは悪い反応ではない。喪われた尊いものを抱き直す「仕事」なのだ。その意味では、むしろよりよく生きていくために不可欠の「仕事」だ。悲しみを省いてしまうことは、心のなかの大切なものを切って捨てるようなことだろう。悲しみという心の仕事を時間をかけて行うことが成熟につながり、それまでにもまして奥深い生きがいを見出していくことに通じる。(78頁)
悲しむことが無条件的によいことだとは私は思わないが、何らかの「気晴らし」によって悲しむことを避けたり悲しみを紛らわしたりせずに、ただ悲しむことがその不可欠な一過程を成している経験はある。その過程を必要十分に生きることではじめて見出される生の奥行きとも呼ぶべきものがある。
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