岩波文庫のエピクテトス『人生談義』の國方栄二氏による新訳が出たのは最近のことで、上巻が2020年、下巻が2021年である。新しい仏訳が Vrin 社から出版されたのも2015年と比較的最近のことである。どちらも入手しやすい値段で出版されているのはありがたいことだ。
岩波文庫版の下巻に収録されている『語録』第三巻第一三章の冒頭の仏訳を授業で使おうと思って、ネット上から無料でダウンロードできる仏訳を利用することにした。この訳は1862年刊行だから、学術的には後の新訳に取って代わられざるを得ないところもあるとは思うが、採用されている訳語からなるほどと思わされるところもある。
まず上掲の岩波文庫の訳文を引く。
孤独とは頼るものがない人の心の状態のことである。というのは、ひとりでいるからといって直ちに孤独であるわけではないのは、多くの人の間にいるからといって孤独でないとは言えないのと同じだからである。実際、われわれが兄弟や息子や信頼している友人を亡くしたときには、たとえローマにいて、多くの群衆と出会い、多くの人と一緒に住んでいても、また時にたくさんの奴隷を所有していたとしても、ひとりぼっちで取り残されたと言うようなことがよくある。つまり、孤独な人は、その言葉の意味においては、頼るものがなくて、自分に危害を加えようとする人びとにさらされた人のことである。だから、旅先にあって盗賊の手に陥ったときなどは、特に自分が孤独を感じていると言うのである。なぜなら、孤独な気持ちが取り除かれるのは、人と会うからではなく、信頼のおける控えめで役に立つ人と会うからである。
この訳文だけで十分に言いたいことはわかるし、「奴隷云々」の箇所を除けば、二千年前の帝政ローマ時代の哲学者のこの言葉はそのまま今のわたしたちにも理解できる。
上掲の旧仏訳では同箇所は次のようになっている。
Être abandonné, c’est se trouver sans appui. Un homme qui est seul, n’est pas dans l’abandon pour cela ; par contre, on peut être au milieu de beaucoup d’autres, et n’en être pas moins abandonné. C’est pour cela que, quand nous perdons un frère, un fils, un ami qui était notre appui, nous disons que nous restons abandonnés, bien que souvent nous soyons à Rome, en face d’une si grande foule, au milieu de tant d’autres habitants, et parfois même que nous ayons à nous un si grand nombre d’esclaves. Car celui-là se dit abandonné, qui, dans sa pensée, se trouve privé d’appui, à la merci de qui veut lui nuire. C’est pour cela qu’en voyage nous ne nous disons jamais plus abandonnés qu’au moment où nous tombons dans une troupe de voleurs; car ce n’est pas la présence d’un homme qui nous sauve de l’abandon, mais la présence d’un homme sûr, honnête, et prêt à nous venir en aide.
他の異同は措くとして、日本語訳冒頭の「孤独」よりも仏訳冒頭の être abandonné (見捨てられている)のほうがより限定的だが強烈なイメージを与える。Vrin の新仏訳の冒頭は L’isolement(孤立)となっている。どちらの仏訳からも、ここでの孤独は、ひとりでいる、ということではなくて、誰かから、あるいは、何かから、見捨てられ(見放され)ている、あるいは、孤立している、という状態のことだとわかる。
もちろんこのことは日本語訳でも引用箇所全体を読めば誤解の余地なくわかることだが、「孤独」という日本語からだけでは直ちに浮かんでこない孤独の様態が両仏訳では冒頭に端的に示されていることが印象に残った。
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