大岡信の『名句 歌ごよみ』(全五巻、角川ソフィア文庫、1999-2000年)は、折に触れて紐解くお気に入りのアンソロジーである。「冬・新年」「春」「夏」「秋」「恋」の五分冊になっている。所有しているのはいずれも電子書籍版なので、手に取って気ままに頁をめくるということはできないが、テーマに沿って、即かず離れず、あたかも連歌・連句のように並べられた名句・名歌のいくつかをそのときの気分に合わせて嘆賞したり、それらに付された大岡の簡潔な評釈に詩歌の鑑賞の仕方を学んだり、興味をもった言葉が使われている作品を検索エンジンで網羅的に探したりして楽しんでいる。
今日の記事のタイトルに挙げた菅原道真の漢詩には「冬・新年」篇で出会った。七言絶句九篇のうちの「独吟」と題された一篇である。
牀(とこ)寒く枕冷(ひややか)にして 明(よあけ)に到ること遅し
更(あらた)めて起きて 燈前に独り詩を詠む
詩興変じ来りて 感興をなす
身に関る万事 自然に悲し
この詩に大岡は次のような評釈を付している。
冬の夜、寝床に入っていても寒さを覚えるほどで、枕も冷たい。夜明けにはまだまだ間がある。仕方なく再び起き出て、灯火のもと詩を作ろうとする。ところが、詩句を案じるうちに気分が変わってきて、わが身の来しかた、行く末、さまざまな思いが湧きたって感慨にふけることになってしまう。どういうわけか、わが身に関わることはすべて、何がなし悲しみの色を帯びているのだ。
昨日の記事で話題にした『詩人・菅原道真――うつしの美学』のなかにもこの漢詩は引用されている。この作品について大岡は次のような興味深い見解と評釈を示している。
詩の制作心理に多少とも関心を抱く向きには、この短詩はなかなか興味ある観察材料を提供しているでしょう。
まるでこの詩人は同時代の人であるような気が、私にはいたします。[…]すなわちこの詩は、詩の制作現場の描写として上乗の出来具合を示しています。
冬の夜、寝についたもののあまりの寒さに眠ることができない。夜は長い。やおらまた起き出して、燈火をともして独り詩を詠もうとするうち、一種の自転エネルギーのごときものの働きが詩興そのものの内側で活潑になり、湧然たる感興が形づくられる。その感興の中心にあるのは、しかしながら悲哀の感情だ。思えば身に関わる万事、自然に悲しいのだ。
この一節を読んで、詩作の動機もまた「深い人生の悲哀」でなければならない、と私は言いたくなった。
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