内的自己対話-川の畔のささめごと

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患者のサインは、「信号」ではなく、「記号」である ― 『ケアとは何か』のよりよい理解のために

2024-09-26 14:16:41 | 講義の余白から

 『ケアとは何か』を学生たちと読み進めていく中で、本書の理解を深めかつ関連する諸問題に広く目配りができるように、一方では、村上靖彦氏の他の著作や氏が本書のなかで言及・引用している他者の著書なども紹介し、他方では、重要概念の理解を助ける「補助線」となるような論点も導入している。
 昨日の演習では、第一章の第一節で取り上げられている、患者のサインをいかにキャッチするかという問題に関連して、「信号 signal」と「記号 signe」の違いについて話した。そのとき、引用はしなかったが念頭に置いていたのは、フロランス・ビュルガの Qu’est-ce qu’une plante ?(『そもそも植物とは何か』)のなかの次の一節であった。

Les plantes voient-elles la lumière ? Non, les plantes sont comme si elles percevaient, comme si elles étaient sensibles. Un stimulus n’est pas un signe. Ce dernier désigne, annonce, représente quelque chose d’absent ou qui n’est pas donné en pleine présence. Les plantes ne vivent pas dans un monde de signes, c’est-à-dire un monde où circule du symbolique. Jacques Tassin, nous l’avons vu, parle d’ailleurs de « signal » et non de signe. Ce dernier est porteur d’une équivoque absente dans le signal. Le rapport sémiotique est triangulaire. Il engage l’individu sentant et se mouvant (le « sujet-vivant », animal ou humain), le signe (une matière, une chose, un son, etc.), et la signification à laquelle il renvoie. Il comprend un tiers absent. Le rapport qui existe entre le stimulus et la réaction est binaire, jamais virtuel ou oblique.
                            Florence Burgat, Qu’est-ce qu’une plante ?. Essai sur la vie végétale, Éditions du Seuil, 2020, p. 62-63.

植物は光を「見ている」のだろうか? いや、植物は「あたかも知覚しているかのように」、「あたかも感覚があるかのように」動いているだけだ。刺激は記号ではない。「記号」とは、そこにはないもの、目の前に存在していない何かを示し、告げ、表すものだ。植物は記号の世界には生きていない。植物の世界に、記号によって象徴されるものは行き来してない。前に見たように、ジャック・タッサンは、そもそも「信号」について語っており、「記号」については語っていない。記号は、信号にはないあいまいなものを伝えている。記号の世界は三角関係だ。そこには(1)感じたり動いたりする個体(「主体としての生物」、動物または人間)、(2)記号(物体、事象、音など)、(3)記号によって示される「意味」、の三つが関わっている。だが、三つのうちのひとつ、「意味」は実際には存在しないものだ。そして「刺激と反応」の関係性は一対一だ。そこに潜在的なもの、間接的なものは関わっていない。
              『そもそも植物とは何か』(田中裕子訳、河出書房新社、2021年、67‐68頁、一部改変)

 訳のなかの「実際には存在しない」は明らかに不適切である。意味は、個体と記号と同次元には不在である第三項である限りにおいて意味として機能するという前提でこの「三角関係」が述べられているからである。つまり、意味は、個体と記号と同じ資格でそこに存在してはいないが、実際には「不在」のまま機能としてそこに「存在」しているからである。
 それはともかく、このような「信号」と「記号」の違いを導入すると、ケアにおいては、一義的にその価値が確定していて曖昧さがなく解釈の余地がない「信号」ではなく、両義的あるいは多義的であり、解釈の余地があり、したがってその意味を捉えそこなう可能性がいつも伴う「記号」をいかに的確にキャッチするかということが課題なのだと問題を明確化することができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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