「顕彰」という言葉を『日本国語大辞典』で引いてみると、「物事がはっきりとあらわれること。また、功績を世間に明らかにし表彰すること。」と語義が説明されている。この説明の前半は、物事が自ずとはっきりと現れるという自動詞的な意味であるのに対して、後半は、隠れていたものを誰かが明らかにして世間に知らしめるという他動詞的な意味だ。今日では後者の意味で使われることが圧倒的に多いように思う。例えば、『新明解国語辞典』(第八版)には、「功績があることを認め、その業績のあらましを一般の人に周知させること」という他動詞的な意味しか示されていない。
誰々の思想を顕彰するという場合、それまで何らかの理由であまり知られていなかった、あるいは不当に低い評価しか受けていなかったが、その思想は広く知られるに値する、あるいは再評価に値すると考えた人がそれを世間に知らせることだ。それはそれで大切な事業だと思う。
しかし、ときに贔屓の引き倒しのようなことになっているのを見かける。あまりにも無批判に、あるいは過大に評価することで、かえってその価値を正当に評価することから世間を遠ざけ、結果、世間からの真剣な関心を失わせることになっているような場合がある。
著者本人と顕彰されている対象との名誉のために名は挙げないが、いま必要があって読んでいる本はまさにこの類の代物で、正直、読み続けるのが辛い。本当にその対象の真価を世に伝えたいのならば、こんな無批判で、過大評価と牽強付会と我田引水の推測だらけの書き物にはならなかったはずである。むしろ、対象であるその思想そのものを厳しく批判的に検討してこそ、その対象に対して本当に誠実な態度を取ることになるのだと私は考える。著者はいったい誰のために書いているのだろうか。本人にはそのつもりがなくても、とどのつまり自己満足に過ぎないのではないかと疑わざるを得ない。
こんなことを書くのは自分でもあまり気分のよいことではないのだが、ちょっと吐き出しておかないと先を読めそうもないので書いた。
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