修士ニ年の学生たちに日本語で4000字の小論文を書かせる演習では、毎回学生たちが事前に準備してくれたテキストを教室でスクリーンに映して皆で検討している。
私は生成AIの使用は各自の裁量にまかせている。初回、「相談相手」として使ってもいいが「奴隷」のように使われるな、とだけ簡単な注意はしておいた。そして、よりよい表現を求めて「呻吟する」ことの積極的意味について自らの経験を交えて少し語った。
学生たちが事前に提出する(というか、各自テキストを私と共有しているので、彼ら入れる直しや追加を私もリアルタイムで追うことができる)テキストを読んでいて、本人聞くまでもなく、明らかにAIに丸投げしている場合、かなり参考にはしているが自分の考えはよく表現できている場合、あくまで適切な語彙の選択のみ使用している場合、まったく使用せずに自前の文章を書いている場合など、すぐに区別できる。彼らのうちの多くとは学部時代から教室で接してきており、それぞれの実力は把握できているから、簡単に見分けられるのである。
自動翻訳の精度はそれこそ日進月歩で、日仏語間でも、翻訳させる原文が構文的に明瞭で、語彙のレベルが安定していれば、事実の伝達を主とする新聞記事レベルの文章であれば、ほぼそのまま通用する翻訳を生成できる。ときどきまったく不適切な語彙選択をしてくるのは御愛嬌である。
要領のいい学生は、AIに訳させるもとのフランス語の文章を平易な文体で書くから、結果として得られた翻訳もほぼ完璧である。が、中味はつまらないことが多い。誰でも書けるような文章になってしまう。この点は、AIとの対話を繰り返していくうちに、AIも本人のクセを学習していくから、徐々に改善され、「その人らしい」文章にはなっていく。しかし、本人の日本語能力は一向に伸びない。
他方、そんなに日本語能力は高くないのに、自力だけで書いている学生もいる。当然、私の直しがかなり入る。そこで意気阻喪せずに、添削を謙虚に受け止め、新たに学んだ表現を消化して自分のものにしようとする学生は、少し時間はかかるが必ず伸びる。ときに飛躍的に上達する。
両者の違いは歴然としている。言語生成が「外注」か「内製」かの違いである。外国語学習の過程において、「内製」を可能にする言語生成システムが機能し始める瞬間がある。それはそれぞれ本人しか経験できないことだ。私にもあった。
その瞬間から、ちょっと大げさに聞こえるかも知れないが、それまでとは世界が違って見えるようなるのだ。世界の分節化と言語の分節化と新たな統合過程が母語の場合とは違った仕方で始動し始めた瞬間だと言ってもよい。
この内燃機関としての言語生成システムは、「燃料」となる言葉の学びを続けていけば、つねに活動を続け、精度も向上していく。おそらく「一生モノ」である。しかも「課金」は一切発生しない。
「外注」を上手に使うことは仕事の効率化と高速化のためにはきわめて有効な手段だし、そのためのパートナーや「取引先」と良好な関係を構築・発展させていくことは「ビジネス」の世界ではいまや必須である。
そんな目まぐるしい「ビジネス」の世界とはまったく無縁で、自宅の一室を仕事場とする年老いた職人は「内製」にしかできない「匠の技」にこだわり続ける。ワタシハサウイフモノデアリタイ。
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