内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

あの花の散らぬ工夫が有ならば ― 芭蕉の人情句から

2018-04-30 22:44:54 | 読游摘録

 ヴァカンス明けの今日からまた改革反対派学生たちによる大学の建物の封鎖が一部で再開され(あっ、「封鎖再開」って矛盾していて、ちょっと滑稽ですね)、学内では混乱が続いている。それに関連して様々な対応が私も求められたが、それらすべては自宅からメールで行なった。キャンパスがどのような状態かは同僚たちからの報告によっていた。
 明日5月1日は、労働記念日(La fête du travail)で国民の祝日。したがって、一日「休戦」。しかし、その翌日2日以降どうなるか、予断を許さない。
 今朝から自宅でできる大学関係の仕事を処理しつつ、随時入ってくるメールには即時に対応していたが、ときどき息抜きとして読んでいたのが宮脇真彦『芭蕉の人情句 付句の世界』(角川選書、2008年)。世評の高い前著『芭蕉の方法 連句というコミュニケーション』(角川選書、2002年)に比べて世間の評価は今ひとつなようだが、私は面白く読んでいる。
 今日の記事のタイトルに掲げた句「あの花の散らぬ工夫が有ならば」は、元禄七年春「五人扶持」歌仙の中の野坡の前句「猫可愛がる人ぞ恋しき」に対する芭蕉の付句。
 「見事に咲いた花を散らせずにおく工夫がもしあるならば、いつまでも花の美しさを堪能できるのにと落花をことらさに惜しむのは、猫を可愛がっている女人も美しいままでいてほしいと、恋しい思いを募らせているからだ。」(『芭蕉の人情句』110-111頁)
 これはこの付合の即自的な注解。この後、連句ならではの連想的評釈が展開されていく。それを読むことで、広がっていく詩的世界に游ぶのは愉しい。
 『源氏物語』若菜の巻で、柏木が女三の宮への恋慕を募らせたのは、猫が御簾をずらしたのがきっかけだった。柏木はその後女三の宮を偲んでその猫を慈しむ。宮脇は、この付合がその面影ではないかという。
 その当否は措く。というか、差し当たり、私にとって、それはどうでもよい。私の連想は、丸谷才一『輝く日の宮』の次の一節に飛んだ。

あの方面の学者たちは実證が好きだし、それに執着するあまりもつと大事なことを忘れがちである。そして想像力を働かせることを毛嫌ひし、仮説を立てることを厭がる。あれは明治のころ日本にはいつて来た文学研究法が、西洋十九世紀に全盛の自然科学の方法を文学に当てはめるものだつたのに由来する。その態度を保存し、奨励した結果、かうなつた。をかしな学風が支配的になつてしまひました。

 これは小説の中の言説であるから、現実の日本の学会の現状に照らし合わせて云々するのも大人げないであろうし、第一私は日本の学会のことをほとんど知らない。
 それはともかく、想像力と仮説なしの学問なんて、そもそもありうるのでしょうか。












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