内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(三十七)

2014-05-21 00:00:00 | 哲学

2. 4. 3 〈肉〉に奥行を与えるものとしての自己身体(1)

 〈肉〉は、「感じられ、感じるものという二重の意味において感覚的なもの」(VI, p. 313)である。〈肉〉は、知覚された世界であるという意味では、受動的であり、しかし、それ同時に、己の内に生まれ、己に内属する知覚主体によって己自身を知覚するかぎり、能動的である。この知覚主体が、まさに私の身体にほかならない。私の身体は、感覚世界に本質的に帰属するかぎり、すべての感覚された諸事物と同じ資格で〈肉〉の一部を成している。しかし、「私の身体は、最も高次元に、すべてのものがそれであるところのもの、「次元的な〈これ〉」である」(« mon corps est au plus haut point ce qu’est toute chose : un ceci dimensionnel », ibid.)。なぜなら、私の身体は、「感覚されるもののうちで、他のすべてのものの登記がそこにおいて成される一個の感覚者であり、他のすべての感覚されるものがそれに参与する基軸的感覚者」(« un des sensibles en lequel se fait une inscription de tous les autres, sensible pivot auquel participent tous les autres », ibid.)だからである。

諸事物が次元になるのは、それらがある領野の中に迎え入れられるかぎりであるのに対して、私の身体はこの領野そのもの、つまり、「己自身から」次元と成る感覚者であり、普遍的な計測者である。
« Tandis que les choses ne deviennent dimension qu’autant qu’elles sont reçues dans un champ, mon corps est ce champ même, i.e. un sensible qui est dimensionnel de soi-même, mesurant universel » (ibid.).

 諸事物の知覚の領野としての形成は、その知覚の領野に生まれ、住まい、その知覚の領野が己に対して開かれるものとしてその領野に己自身を与える知覚主体があってはじめて可能になる。或るものが次元として、あるいは普遍的なものとして機能するのは、それが知覚されたものであるかぎりである。ところが、それに対して、私の身体は、知覚するものでありかつ知覚されるものであり、感じるものでありかつ感じられるものである。

感覚受容的な物としての私の身体の、感じるものとしての私の身体への関係[…]=触れられたものの触れるものの中への没入、触れるものの触れられたものの中への没入 ― 感覚受容性、その自己から自己への移り行き、その自己知覚、その自己自身への到来 ― 取り巻くものを持ち、その取り巻きの裏面である自己。
« Le rapport de mon corps comme sensible à mon corps comme sentant […] = immersion de l’être-touché dans l’être touchant et de l’être touchant dans l’être-touché — La sensorialité, son SICH-bewegen et son SICH-wahrnehmen, sa venue à soi — Un soi qui a un entourage, qui est l’envers de cet entourage » (ibid.).


生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(三十六)

2014-05-20 01:10:00 | 哲学

2. 4. 2 身体の「裏側」としての精神(2)

この裏側は、客観的思考においてのように、同じ実測図の別の投影という意味で理解されてはならず、奥行への、延長の次元性ではない一つの次元性への身体の「超過」という意味において、そして、否定的なものの感覚的なものへの超越的下降という意味において理解されなくてはならない。
« L’autre côté à comprendre, non pas, comme dans la pensée objective, au sens d’autre projection du même géométral, mais au sens d’Überstieg du corps vers une profondeur, une dimensionnalité qui n’est pas celle de l’étendue, et de transdescendance du négatif vers le sensible » (VI., p. 313).

 ここでの身体と精神との関係は、表現とその意味との関係と類比的であると見なすことができる。つまり、意味のない表現がありえず、表現なしにそれ自体としてとどまる意味もありえないのと同じように、私の身体がその精神を持たないということも、私の精神が私の身体とは独立に存在することもない、ということである。一方で、精神は、見えるものである自己身体が担う表現を己の表現として有ち、他方で、自己身体は、精神によって意味を有つ。
 ここで問われているのは、精神と身体との一般的関係でもなく、ある一つの精神とある一個の身体との間にだけ成立する特殊な関係でもない。今ここにあるこの身体、知覚的時空内に限定されたこの身体に、精神が普遍性の次元としてそこに住まう。この精神が、この身体に住まうかぎりにおいてそうでありうるところのこの精神が、身体を普遍性の次元として機能させる。時間・空間内に限定された個物と普遍性の次元との間の可逆性がそこで現成しているのである。
 私たちは、ここですでに他者の思考がそこにおいて展開される地平に立っている。

他者を見ること、それは、本質的に、私の身体を、他者の対象的身体が心的な〈側面〉を有ちうるような仕方で、対象として見ることである。
« Voir autrui, c’est essentiellement voir mon corps comme objet, de manière que le corps objet d’autrui puisse avoir un « côté » psychique » (ibid., p. 278).

 他者の知覚は、私の身体とは別の他の一つの身体を、見えないものがそこに住まう奥行を有ったものとして見ることである。そのとき、見るものが、見える身体として、己を見るその同じ地平に、他者が現れる。私は、他者の行動を、その精神そのものは私に隠されたままで、理解することができる。私が他者を理解できるということとその他者の精神が私には隠されているということとは、同じ一つの経験の両側面なのである。

 


生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(三十五)

2014-05-19 00:00:00 | 哲学

2. 4. 2 身体の「裏側」としての精神(1)

 精神は、〈見えるもの-見るもの〉である自己身体によって所有された奥行に住まう。見るものは、見えないもの一般だけでなく、己に属する見えないものである「精神」をも世界に与える。このような意味において、メルロ=ポンティは、精神を身体の「裏側」(あるいは「向こう側」)であると定義する。これは単なる暗喩ではない。私たちは、メルロ=ポンティのこのテキストを、西田による次のような身体と精神との関係を規定するテーゼを読み解く鍵として読むことができると考える。西田によれば、「身体なくして精神はない」(全集第十巻四六頁)、精神と身体は、「一つの矛盾的自己同一的世界の両面、即ち歴史的世界の表裏」(全集第十巻二六九頁)である。

この裏側はまさに身体の裏側であり、身体へと溢れだし(踏み超え)、侵食し、その中に身を隠し、そこに根を下ろす。
« Cet autre côté est vraiment l’autre côté du corps, déborde en lui (Überschreiten), empiète sur lui, est caché en lui, s’ancre en lui » (VI, p. 313).

 精神と身体との間には、どちらかが他方に対して優位性を有つということはない。いずれも他方に対して独立ではありえない。どちらかを他方に還元することもできない。しかし、両者は、同一化や融合によって等質化されるということもない。

精神の身体があり、身体の精神がある。両者の間には交叉性がある。
« Il y a un corps de l’esprit, et un esprit du corps et un chiasme entre eux » (ibid.).

 両者の間に見出されるのは、ここでもまた、見えるものと見えないものとの間の可逆性なのである。精神が身体から不可分なのは、見えないものが見えるものと不可分だからである。
 しかし、精神と身体の間の関係を理解するためには、〈見るもの-見えるもの〉である身体から精神の存在へと到達するだけでは充分ではない。しかし、逆に、精神がもっぱら担うとされる思考から私の身体が主体である知覚へと立ち戻るだけでもやはり充分ではない。


生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(三十四)

2014-05-18 00:00:00 | 哲学

2. 4 〈肉〉における自己身体固有の存在性格

 私たちは、この節で、『見えるものと見えないもの』の中の「〈肉〉―〈精神〉」と題された一九六〇年六月の研究ノート(VI, p. 312-314)にコメントを加えることによって、〈肉〉に対する自己身体固有の存在性格を浮き彫りにすることを試みる。このノートの主題は、冒頭の一言 ―「精神を身体の「裏側」として定義すること」― に凝縮されている。


2. 4. 1 見えるもののうちに生まれた見るもの

 奥行がその根本的次元である知覚の領野には、見るものの眼差しがなくてはならない。〈肉〉が奥行を有っているのは、見るものが居るからである。しかし、これまで見てきたところが明らかなように、それは、見るものが奥行を措定するということではない。奥行は、見るものにとってだけ意味を有つようないわゆる主観的なものではない。眼差しの力によって、私の身体は、〈肉〉に帰属する〈見るもの-見えるもの〉として、〈肉〉がそれ自身のうちにおいて見えるものの様々な形へと分節化され、組織化されるようにする。見えるものであるかぎり、それらの形は見えないものによって裏打ちされていなくてはならない。すでに見たように、見えないものの範疇に属する観念や本質は、奥行に住まう。知覚世界に見るものの眼差しがあるということは、見える世界が所有する見えないものとして観念や本質があるということを意味している。
 どこに、どのようにして、見ることを担う見るものは生れるのか。見るものは、見えるものの中で見えるものに取り巻かれて生れる。見るものは、したがって、見えるものに対して優位性を有つこともなく、見えるものから独立することもない。見えるものと見るものとの関係は、本源的には等質な要素同士の間の関係であり、それをメルロ=ポンティは「可逆性」と呼ぶ。
 見るものは、見えるものから到来し、見えるものを享受し、それを映す。このような見るものは、それでは、どのような構造を有っているのか。見えるものの一つである自己身体を有つことで、見るものは己自身を見る。己自身を見ることによって、その見えるものである自己身体は、「距離を置いて」現れる。見えるものとしての身体は奥行のうちに置かれ、したがって、見るものである自己身体は、己の見えないもの次元を所有していることになる。つまり、見るものは、見えるものの世界に生まれ、自己身体を所有することで、見えないもの一般だけでなく、自己自身に固有な見えないものも世界に与えるのである。見るものは、己自身の奥行、己に固有の見えないものの次元を有っているのである。


生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(三十三)

2014-05-17 00:00:00 | 哲学

2. 3. 4 存在がそこにおいて己を隠蔽しつつ己を顕にする奥行

 『見えるものと見えないもの』の中の「奥行」と題された1959年11月のノート(VI, p. 272-273)に立ち戻ろう。そのノートの中には、まだもう一つ検討すべき命題が残されている。

それ[=奥行]がなかったとすれば、世界も〈存在〉もないことになってしまうであろう。
« Sans elle [= la profondeur], il n’y aurait pas un monde ou de l’Être » (VI, p. 272).

 もし〈そこ〉に奥行がなかったとすれば、「隠されたものの次元」は不可能になってしまう。もしこの次元がなかったとすれば、見えるものも、見えるものに属する見るものも存在しないであろう。隠されたものと顕にされたものとの同時性が失われれば、知覚の領野の根本構造が完全に破壊されてしまう。そうすれば、必然的に、時間性もまた消失する。なぜなら、知覚の領野は、「〈過去-現在-未来〉という次元にしたがって広がっており、すべての時間性の起源だからである。その結果、不可避的に、私も他者も諸事物もそれとして存在しなくなってしまう。一言で言えば、知覚世界をまさにそれとして成り立たせているものすべてがすっかり失われてしまうだろう、ということである。
 奥行は、優れた意味において隠されたものの次元である。このテーゼを前提としつつ、メルロ=ポンティが「奥行がなければ存在もない」と言うとき、それは、存在は、何ら欠けるところのない十全なる現前ではない、完全に顕現することは決してない、ということを言おうとしている。存在は、奥行のおかげで己を顕示しながら、奥行のうちにつねに己を隠す。奥行は、存在を最終的な全体化からつねに逃れさせる。
 とはいえ、存在は、「まだ存在していない」あるいは「もはや存在していない」という存在様式を内に含んでいると言うだけでは充分ではない。というのも、奥行は、存在に存在の「彼方」あるいは存在の「外部」を与えることによって、顕にされることもある対象を隠すものであるというだけではなく、存在の内部に不在・非在・否定性を生じさせるものである。しかも、これらは、存在にとって偶有的・否定的な様式ではなく、存在が存在であるために不可欠な属性なのである。絶対的に十全で肯定的な「自己同一的〈存在〉それ自体」など在り得ないのだ。〈存在〉はその〈否定〉を内に含んでいるのだ。
 ここで、私たちが第一章第二章とで詳細に検討した、西田の論文「デカルト哲學について」の中の「真実在」の定義のうちの一つを思い出そう。「真にそれ自身によってあるものは、自己自身において他を含むもの、自己否定を含むものでなければならない」(全集第十巻一二〇頁)。メルロ=ポンティの〈存在〉についてのテキストと西田の〈真実在〉についてのテキストとの間の共鳴は、もはや疑いを入れないであろう。しかし、それは単に両者が表現において似たところがあるという表層的な類似が両者には見られるということに尽きるのではない。両者の間には、互いに他方に向かって問いかけることによって双方の哲学的問いがより深められるという、いわば相互作用的な深層の親和性が認められるのである。
 奥行は、それなしには知覚世界が完全に崩壊してしまう、知覚世界の根本的な次元である。したがって、存在が奥行のうちに己を顕にするということは、存在が知覚の領野として己を顕にするということである。存在が奥行のうちに己を隠すのは、存在が知覚可能なものの彼方に在るということではなく、常に顕にされることを待っているものを包蔵した無尽蔵の知覚世界の中で己を顕にするということである。〈存在〉は〈可視性〉であるということは、それが単に見えるものでも見えないものでもなく、見えないものに「裏打ちされた」見えるものの構成形態だという意味においてである。〈存在〉は、絶対的な肯定性でも絶対的な否定性でもない。ここでまた私たちが提案する概念を導入すれば、〈存在〉は、見えるものを無限に受け入れ続けることができる〈受容可能性〉なのである。それゆえにこそ、それは見られうるのであり、見られるという受動性を、「知覚されること」(VI, p. 304)をその内に含んでいるのである。

知覚的次元での否定や変形、これら外在的な名称として考えるよう学んできた諸可能性を、今や私は〈存在〉のうちに統合しなければならない。〈存在〉は、それゆえ、奥行のうちに階梯づけられ、己を顕にすると同時に己を隠す、深淵であって、充溢ではない。
« Les négations, les déformations perspectives, les possibilités que j’avais appris à considérer comme des dénominations extrinsèques, il me faut maintenant les réintégrer à l’Être, qui donc est échelonné en profondeur, se cache en même temps qu’il se dévoile, est abîme et non plénitude » (ibid., p. 108).

 〈肉〉は、物質でもその表象でもない。物質という概念もその表象という概念も、見えるものの内部に見るものが生まれるという生誕の神秘が起こる知覚世界における存在の現われを記述するのに役に立たないばかりか、却ってそれを妨げてしまう。なぜなら、それらの概念は、私たちを知覚世界のロゴスに対して盲目にしてしまうからだ。〈肉〉は、実体でもない。〈肉〉は、存在論を基礎づけるような、それ自体につねに同一的な実体ではないのだ。〈肉〉は、主体ても客体でもなく、それらを孕み、それらに生を与える〈場所〉なのである。〈肉〉は、「見られた〈存在〉」であり、「一つの〈存在〉は、単なる肯定性、即自、思考によって措定された〈存在〉ではなく、〈自己〉の顕現であり、覆いを取ることであり、成りつつあるところのもの … である」(« un Être qui n’est pas positivité simple, En soi, et pas l’Être posé d’une pensée, mais manifestation de Soi, dévoilement, en train de se faire … », ibid., p. 125)。存在は、知覚世界において、奥行のうちに、己を隠しつつ己を顕にする。
 メルロ=ポンティの〈肉〉の存在論によって表現を与えられようとしていたのは、西田が言うところの「自己の中に自己を映す無限の過程」(全集第十巻一二二頁)にほかならない。


生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(三十二)

2014-05-16 00:00:00 | 哲学

2. 3. 3 諸観念がそこにおいて現実化される奥行(3)

 メルロ=ポンティは、本質 ― 言葉の「向こう側」を、それ自体で考え得る一種の実体のようなものとは見なしていない。では、どこでそれを把握するのか。
 この問いについてもまた、立方体を例に取って考えてみよう。立方体の知覚は、与えられた立方体を様々な角度から視察しなくても、あるいは新たにその定義を想起してみなくても、実現可能である。例えば、平面上のいくつかの直線の組み合わせからなる立方体の見取り図を見るだけで、その場で、奥行を有った一個の立方体を知覚することができる。これが可能であるためには、知覚世界にすでに〈本質〉の次元が与えられていなければならない。したがって、立方体の知覚において、〈事実〉と〈本質〉との間に対立はない。確かに、立方体の平面図は立方体そのものではない。その証拠に、その平面図のうちの或る面に斜線を入れただけで、それは立方体の見取り図として見えなくなってしまう(voir PP, p. 304)。しかし、この価値喪失可能性こそが、なぜ、平面図を見ただけで立方体を知覚することができるのかという問へと私たちを導くのである。
 「私は一個の立方体を見ている」― この知覚的信において、「知覚された本質」とも呼べるものが作動している。この知覚された本質は、反省的思考によって抽出された本質に先立つ。知覚された本質は、見えないものであり、知覚経験の中で見えるものを支えているが、この本質が、それ自体によって考えられ得るものとして反省的思考によって措定される本質の起源であって、その逆ではない。なぜなら、視察による反省的検証に先立って、立方体の知覚は、それとして端的に可能だからである。知覚的信は反省的知に先立つ。そもそも、立方体の見取り図の場合、そこに与えられた諸側面を異なった角度から視察することさえできない。
 もし、知覚の領野から知覚された本質が機能する次元が失われたとすれば、或る物が立方体として見えることさえ不可能になってしまう。知覚された本質がそれとして機能する場所においてこそ、様々な視像が奥行のうちに自ずと組織化されるのである。この知覚された本質なしには、一つの平面上に見られている立方体の見取り図の中に奥行が立ち現れることもない。それは、三次元空間の場合も同様であり、この知覚された本質がなければ、見られた立方体は、たとえまだ〈見えるもの〉という身分は失わなかったとしても、己を立方体として同定可能にしているその隠れている面と厚みを失ってしまい、立方体としての価値も消失する。
 知覚された本質は、しかしながら、絶対的確実性を基礎づけるものではない。なぜなら、立方体を知覚しているという信は、隠れている面の存在についての疑いを最終決定的に排除することは決してできないからである。私たちは、この知覚的信を生きることしかできないのであり、そこに留まるかぎりは、絶対的明証性を有った真なる命題にそれを置き換えることはできない。
 本質は、見えないものの次元である奥行を見えるものに与える。しかし、本質は、それ自体として、見えるものから独立に存在するものではない。本質は、見えないものであり、見えるものがまさにある一定の仕方で見えるように、見えるものに己を与える。見えるものを裏打ちすることによって、いわば見えるものの内側から見えるものにその形姿を与える。この意味で、本質は、見えるものの奥行に住まうのである。
 見えるものに住まい、見えるものがそのように在るということを知覚世界にもたらしている、この「生きて働く本質」と見えないものの次元である奥行との関係を、さらに踏み込んで考察してみよう。奥行のうちに本質が住まうということは、見えるものが奥行を有っているということから必然的に導かれる論理的帰結ではない。なぜなら、もしそうであったならば、奥行のうちに一個の立方体を見るということそれだけによって、上に言及したような懐疑を排除することができるからである。見えないものである本質によって裏打ちされることによって、見えるものは奥行を有つ。見えないものは、しかしながら、それ自体で存在し、見えるものに先立つものではない。なぜなら、本質は、様々な視像の変化を通じて、不変項として知覚世界の中に現成するものであり、見えるものによって所有された奥行として、見えないものにとどまるからである。もし見えないものがなければ、見えるものはなく、もし見えるものがなければ、見えないものもない。両者は、事実上不可分であるだけではなく、原理的に不可分なのである。一方が他方に還元されるということもない。両者の間の関係は因果関係ではない。一方の他方に対する優位性ということもない。両者は、知覚の領野が奥行のうちに現実化されるのに協働しているのである。本質は、原初的な奥行にその〈肉〉を与え、その奥行そのもののうちに住まう。
 具体的経験の中でのこのような本質把握は、或る知覚する身体が或る時或る処で或る対象を通じて獲得することができる〈一般者〉の認識である。このような認識について、西田哲学の術語と私たち自身が提案する「受容性」という概念とを用いてまとめるならば、次のように言うことができるだろう。このような〈一般者〉の認識は、自己限定的な歴史的生命の世界において、行為的・受容的身体による行為的直観を通じて、個別的な感覚的形態として、〈今〉〈ここに〉「個性的」に構成される。歴史的生命の世界は、そこに生きる個物としての私たちの身体的自己に対して、或る一つの普遍的価値を「個性的」に表現することができるのである。


生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(三十一)

2014-05-15 00:00:00 | 哲学

2. 3. 3 諸観念がそこにおいて現実化される奥行(2)

 観念を知覚世界における奥行として捉えようとするメルロ=ポンティの考え方を、一つの具体例を挙げて検討してみよう。
 一個の立方体について、次のように想定してみよう。私は、この机の上にある一個の物体を観察しながら、立方体とは何であるかを今初めて学びつつある。私の目の前に一つの見える物体がある。最初にこの立体について私に与えられているのは、「立方体」という名前だけである。それ以前にすでに学習済みの直線、角度、三次元空間などについての基礎知識を手掛かりに、私はその物体をいろいろな角度から観察しながら、その定義と属性を学ぼうとしている。そうすることによって、注意深い視覚的検討を通じて、私は立方体という観念を把握するに至る。一度その観念を認識すると、私は、新たに提示された別の個体が立方体であるかどうか、それが先に得られた定義を満たしているかどうかを様々な面を見ながら確認することによって、判断することができるようになる。
 どのようにして、ある一つの立方体の様々な視像を通じて、立方体の観念を把握するに至ったのだろうか。問い方を変えれば、どうして、今此処に見えている一個の物である特定の立方体によって、立方体一般が何であるか学び、その定義を言うことができるようになったのだろうか。反省的思考による総合作用が、継起的に与えられる相異なった視覚的所与に一つの統一性を与え、この統一性によって立方体の観念を私は獲得したのだろうか。あるいは、立方体の常に自己同一的な永遠の本質あるいはイデアが、その一つの感覚的表象でしかない一個の見える立方体についての経験とは独立に、超越論的な知識の領域に私が入ることを可能にしたのだろうか。
 立方体の観念は、或る観点から見て隠されている面と同じ意味で見えないものの序列に属しているのではなく、本性上見えない。この意味で、いかなる視像も立方体の観念には一致しない。しかし、もし、ある一個の見えている立方体の諸側面について何も知らないままに立方体の観念を有つことができたとしたら、この見えている何ものかが立方体かどうか、眼差しによって観察しながら結論を下すことがどうしてできるだろうか。先に見たように、私が一個の立方体を見ているときに私に与えられるのは、継起的な異なった視像の間の相互外在的関係ではない。そこで私に与えられているのは、互いに他を表現し合う諸項間の相互内在的関係である。そうでなければ、私はいったい立方体について何か学ぶことがどうしてできるだろうか。
 なぜ、ある一個の立方体の様々な視像は、このような内在的関係を有っているのだろうか。このような関係が可能なのは、私が考察の対象となっている立方体の定義と諸属性とを学び始める前に、私において、同じ一つのものを見ているという信がすでに作動しているからである。この「知覚的信」がまずあるからこそ、同じ一つのものが私の眼差しに対してそれとして現れるのだ。
 しかしながら、この知覚的信にのみよって立方体の知覚が成立するのではない。確かに、この知覚的信によって、私の目の前に何かあるという確信は有つことができる。しかし、まだそのものが何であるかは分かっていない。言葉によって、立方体の観念をそれとして、つまりその本質を私は理解する。
 しかし、それは、語る主体である私と永遠に不変な本質との間に言語活動の中で一致や融合が発生するということを意味しているのではない。「生きていて活動状態の本質は、常に、言葉の配列によって示される消失点、それら言葉の「向こう側」であり、その向こう側には、それら言葉の中で、まず、そしていつも生きることを受け入れる者しか、接近することはできない」(« l’essence à l’état vivant et actif est toujours un certain point de fuite indiqué par l’arrangement des paroles, leur « autre côté », inaccessible, sauf pour qui accepte de vivre d’abord et toujours en elles », VI, p. 159)。
 言葉の「向こう側」である本質は、それらの言葉なしにそれとして存在するのではない。それは、語る主体や複数の語る主体が構成する共同体によって構成されるのでもない。本質は、私たち語る主体によって、言葉を通じて、言葉の彼方に目指されるものである。それゆえにこそ、すべての語る主体がそこに根づいている知覚世界の中に、例として挙げた立方体の同一性のように、個別的な同一性が物象化するのである。


生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(三十)

2014-05-14 00:00:00 | 哲学

2. 3. 3 諸観念がそこにおいて現実化される奥行(1)

 メルロ=ポンティは、「〈肉〉と観念との繋がり」という表現を用いつつ観念の生成を問題とするとき、観念を〈肉〉の奥行と見なしている。そこで問題にされるのは、「他のすべての経験がそれとの関係で位置づけられるような水準の確立」(VI, p. 195)である。

観念とは、この水準のことであり、[…]他の物の後ろに隠れた物のような事実上見えないものでもなく、見るものとは何の関係もないような絶対的に見えないものでもなく、この世界の見えないもの、この世界に住まい、それを支え、それを見えるものとしているもの、その内的な固有の可能性、この存在者の〈存在〉なのである。
« L’idée est ce niveau, […] non pas un invisible de fait, comme un objet caché derrière un autre, et non pas un invisible absolu, qui n’aurait rien à faire avec le visible, mais l’invisible de ce monde, celui qui l’habite, le soutient et le rend visible, sa possibilité intérieure et propre, l’Être de cet étant » (ibid.).

 観念は、「感覚されうるものの反対物」ではない。観念は、感覚されうるものの「裏地であり奥行である」(ibid., p. 195)。メルロ=ポンティが「奥行は、同時性の優れた意味における次元である」(« la profondeur est la dimension par excellence du simultané », ibid., p. 272)と主張するとき、それは、単に、事実上見られたものらの同時性、あるいは、或る同じ一つの物の現に見られている面と隠されている面との同時性だけを問題にしているのではなく、それらの同時性とともに、〈見えるもの〉と〈見えないもの〉との同時性、個物と一般者との同時性、知覚世界における個物と観念との同時性をも問題にしているのである。
 それらの間の知覚における共存 ― それらの間の「奥行のうちの同一性(動的同一性)」(ibid., p. 262)― は、いかにして現実化されているのか。知覚の領野においては、同一性は恒常的に生成過程にある。知覚の領野でこそ、「客体でも主体でもなく、本質でも実存でもない〈存在〉の最初の表現」(« première expression de l’être qui n’est ni l’être-objet ni l’être-sujet, ni essence ni existence », ibid., p. 228)が現成する。この原初的な表現が本質性や個別性についての問いに答えをもたらしてくれる(voir ibid.)。この私たちに最初に与えられる表現に対して、私たちは、個物における本質の受肉をもたらすものは何かという問いを投げかけることができる。この表現を出発点として、言語活動を通じて、或ものがそれであるところのものを、たとえそれを完全に汲み尽くすことはできないにしても、何らかの仕方で知ることができるのであり、此処あるいは彼処に在るものの性格を引き出すことができるのである。一つの観念をそれとして捉えること、しかし、感覚されうるものから不可分なものとしてそれを捉えること、それは、どこで、どのようにして、為されるのか、メルロ=ポンティは、このように世界了解のための根本的な問いの一つを問うているのだ。


生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(二十九)

2014-05-13 00:03:00 | 哲学

2. 3. 2 物らがそれとしてそこにある奥行(2)

 奥行こそが、諸事物が「私の視察に対して様々な障害を設け、己の現実・「開け」・「同時的現前」にほかならない抵抗を生み出す」(VI, p. 272-273)ことをもたらしている。諸事物の現実、あるいはそれらの「開け」、あるいは「同時的現前」を成しているところのものは、それらの本質を汲み尽くそうと欲する私の眼差しに対して、それらの諸事物が引き起こす抵抗だということである。諸事物が己の全体的理解を拒み続けるがゆえに、私の眼差しはそれを欲望する。それらが私の眼差しに対して常に部分的にしか顕にされないがゆえに、それらは知覚の領野においてその存在を開示する。
 『知覚の現象学』によって開かれた地平を前提としながらも、メルロ=ポンティは、『見えるものと見えないもの』において、諸事物の存在の次元そのものとしての奥行を強調する。それは『知覚の現象学』前後の時期のメルロ=ポンティには見られない態度だった。最晩年の著作において、メルロ=ポンティは、知覚的経験の領野においてこそ、存在は己を隠蔽しつつ開示するという思想を前面に打ち出すに至ったのである。
 奥行によってこそ、知覚の領野において「諸事物が〈肉〉を有つ」(ibid., p. 272)ということがもたらされる。知覚の領野は、その不可欠な次元として奥行を有っており、その奥行のうちにすべての物は現れる。私たちによって「対象」「即自」「実体」等として思考される前に私たちに与えられている見えるものにとって、奥行は不可欠な次元である。メルロ=ポンティは、知覚の領野で物として実現されるものを「肉」と呼ぶ。この意味で、奥行は、〈肉〉にとって不可欠な次元だと言うことができる。

 以上見てきたところから、『知覚の現象学』と『見えるものと見えないもの』との関係は、どのように規定することができるだろうか。それは進歩でも、転回でもない。相容れない異質な思考同士の対立でもない。哲学探究の基本的態度は知覚的経験地平に立ち戻ることだという点においては、両者は一致している。メルロ=ポンティは、見ることや触れることによって己自身に対して現れる知覚世界に立ち戻り、そこに居を据えることによって、存在のすべての意味の起源とすべての意味の存在の起源とを探究する。『知覚の現象学』は、沈黙のうちに顕にされる知覚世界に立ち戻る。その世界に対して不偏不党な観察者や世界の構成者であるような主体を要請する外からの説明では、その世界に近づくことはできない。世界の豊穣さを私たちに忘却させる反省的思考によって供給される概念からなる覆いを取り除くことによって、知覚世界をそれとして顕にすることがそこでの主たる問題なのである。メルロ=ポンティは、非反省的次元・前反省的次元、世界経験の基層へと立ち戻ろうとするが、しかし、非反省的次元・前反省的次元はつねに反省へと関係づけられ、反省はつねに非反省的次元・前反省的次元へと適用されるものであることを忘れているわけではない。『見えるものと見えないもの』で今一度知覚世界へと立ち戻るのは、もはや知覚世界の諸現象を記述するためではない。それは、語る主体である私たちを通じて、その世界自身に己を自ら語らせ、己を開示させるためである。私たちに語らせることによって、知覚世界は自ら沈黙を破る。世界は私たちの身体を通じて己を表現する。
 ここで私たちはメルロ=ポンティの思考が西田のそれと共鳴し合うのを聞く。「創造的要素として身体的に見る私に対しては、世界は表現的となる。物は生命の表現として現れる。表現が我を動かすと云ふのは、かゝる立場に於て云ひ得るのである」(全集第八巻六三頁)。私たちは、かくして自己表現的世界に到来する。「我々が創造的となる時、物は単に見られるのでもなければ、物は単に媒介者的でもない。物は我々の生命の表現でなければならない、即ち歴史的生命の表現でなければならない」(同巻六一頁)。


生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(二十八)

2014-05-12 00:00:00 | 哲学

2. 3. 2 物らがそれとしてそこにある奥行(1)

 存在論的概念としての奥行の分析を、『見えるものと見えないもの』の中の「奥行」と題された1959年11月のノート(VI, p. 272-273)の注解から始めよう。

私がそこから見る観点がある ― 世界が私を取り巻いている ― だから、奥行がなければなららない。
« Il faut qu’il y ait profondeur puisqu’il y a point d’où je vois, — que le monde m’entoure — »
それ[=奥行]は、優れた意味において、同時的なるものの次元である。
« La profondeur […] est la dimension par excellence du simultané. »
奥行は、明瞭な視像として私が見るものの中に本源的にある、それは現在における過去把持のように ― 「志向性」なしに ―。
« La profondeur est urstiftet dans ce que je vois en vision nette comme la rétention dans le présent, — sans « intentionnalité » — »

 これらの箇所で言われていることを、一連のテーゼとして、次の三点にまとめることができる。私が世界の内部においてある観点から見るという事実は、世界の内には奥行が在るということを含意している。奥行は、〈ここ〉と〈そこ〉との同時性、〈すでに〉と〈まだ〉と〈いつも〉との同時性、〈見られたもの〉と〈見られていないもの〉との同時性の次元である。奥行は、私がものを見る知覚の領野の中で、思考の主体のいかなる構成作用もなしに、すでに成り立っている。
 これら三つのテーゼは、『知覚の現象学』(以下、引用箇所を示す場合は、PP と略記する)の中で提示されている議論に拠って基礎づけることができる。第一に、私という見るものは、身体なき客観的で無限な眼差しのようなものとしてしか存在しない観点に還元されるものではなく、不偏不党で遍在的な見えない眼差しとして見える世界の中にすっかり姿を消してしまうものでもない。私という見るものは、この私の身体がそれなのであり、見えるものの世界で、「私は…することができる」のシステムとして行動する。第二に、奥行のうちに広がり、そこに見えるものの一つである見るものが住まう知覚の領野は、「二つの次元 ―〈ここ-あそこ〉という次元と〈過去-現在-未来〉という次元 ― にしたがって広がる」領野であることを思い出そう(voir PP, p. 307)。第三に、知覚の領野において奥行の中で自己組織化される立方体という例を再度取り上げ直そう。この組織化は、「移行的総合」であり、主観による構成作用の結果ではない。なぜなら、その立方体があるその場所の奥行の中でその組織化が現実化するのを、私は待たなければならないからである。
 このように、メルロ=ポンティ最晩年の未完の著作『見えるものと見えないもの』の存在論は、知覚の領野に関してのいくつかのテーゼを『知覚の現象学』と共有しており、それらを前提としている。しかし、『見えるものと見えないもの』では、奥行概念の重要性がより強調されているところに両者の間の違いがある。奥行、それはなによりもまず「現前の領野」である。見えるものが奥行を有っているのは、視覚の領野そのものが奥行を有っているからである。視覚の領野は奥行のうちに自己組織化されると言ってもよい。そして、そのことが意味するのは、奥行が私に対して開かれているということであり、「私が私の眼差しを移動させるために、この次元、この開けを持っている」(VI, p. 273)ということである。つまり、視野の中である物が奥行を持っているということは、その奥行はこの私のための奥行、見るものとして今ここに居る私のための奥行だということなのだ。
 奥行は、「優れた意味において、隠されたものの次元」(ibid., p. 272)である。このテーゼは、或る物の見えていない側面がその見えている側面とともに現前する次元、それが奥行だ、ということを言おうとしている。より一般化して言えば、奥行は、見えないものがまさに見えないものとして見えるものとともに現前する次元であるということである。
 「奥行は、物らが有っている在る仕方、はっきりとしていて、物としてとどまり、かつ、私が今現在見ているところのものではないという在る仕方である」(« La profondeur est le moyen qu’ont les choses de rester nettes, de rester choses, tout en n’étant pas ce que je regarde actuellement », ibid.)。知覚の領野が奥行のうちに開かれているからこそ、物らはそれらとして在り得るのであり、視覚によって汲みつくされることなく、己の無限に多様な知覚像をこの知覚の世界に贈与し続ける。そうであるかぎり、わたしが今ここで見ているものは、その見える姿を私に与えつつ、その見える姿をどこまでも超え出ており、無限の贈与の現象的現実性としてそこに在る。