2. 4. 3 〈肉〉に奥行を与えるものとしての自己身体(1)
〈肉〉は、「感じられ、感じるものという二重の意味において感覚的なもの」(VI, p. 313)である。〈肉〉は、知覚された世界であるという意味では、受動的であり、しかし、それ同時に、己の内に生まれ、己に内属する知覚主体によって己自身を知覚するかぎり、能動的である。この知覚主体が、まさに私の身体にほかならない。私の身体は、感覚世界に本質的に帰属するかぎり、すべての感覚された諸事物と同じ資格で〈肉〉の一部を成している。しかし、「私の身体は、最も高次元に、すべてのものがそれであるところのもの、「次元的な〈これ〉」である」(« mon corps est au plus haut point ce qu’est toute chose : un ceci dimensionnel », ibid.)。なぜなら、私の身体は、「感覚されるもののうちで、他のすべてのものの登記がそこにおいて成される一個の感覚者であり、他のすべての感覚されるものがそれに参与する基軸的感覚者」(« un des sensibles en lequel se fait une inscription de tous les autres, sensible pivot auquel participent tous les autres », ibid.)だからである。
諸事物が次元になるのは、それらがある領野の中に迎え入れられるかぎりであるのに対して、私の身体はこの領野そのもの、つまり、「己自身から」次元と成る感覚者であり、普遍的な計測者である。
« Tandis que les choses ne deviennent dimension qu’autant qu’elles sont reçues dans un champ, mon corps est ce champ même, i.e. un sensible qui est dimensionnel de soi-même, mesurant universel » (ibid.).
諸事物の知覚の領野としての形成は、その知覚の領野に生まれ、住まい、その知覚の領野が己に対して開かれるものとしてその領野に己自身を与える知覚主体があってはじめて可能になる。或るものが次元として、あるいは普遍的なものとして機能するのは、それが知覚されたものであるかぎりである。ところが、それに対して、私の身体は、知覚するものでありかつ知覚されるものであり、感じるものでありかつ感じられるものである。
感覚受容的な物としての私の身体の、感じるものとしての私の身体への関係[…]=触れられたものの触れるものの中への没入、触れるものの触れられたものの中への没入 ― 感覚受容性、その自己から自己への移り行き、その自己知覚、その自己自身への到来 ― 取り巻くものを持ち、その取り巻きの裏面である自己。
« Le rapport de mon corps comme sensible à mon corps comme sentant […] = immersion de l’être-touché dans l’être touchant et de l’être touchant dans l’être-touché — La sensorialité, son SICH-bewegen et son SICH-wahrnehmen, sa venue à soi — Un soi qui a un entourage, qui est l’envers de cet entourage » (ibid.).