こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2012年11月11日 日曜日 休みの日の雑考~お目出たいほうがいい~

2012-11-11 12:06:40 | 雑記帳


■糸井重里さんのとあるエッセイ
三ノ輪銀座さんのお便りで、つい思い出した糸井重里さんの・とあるエッセイの好きな一話「お目出たいほうがいい」。
糸井さんに夢中だった80年代アタマ。

どんな美女が、レースの向こうでウインクしていても、隣でクチを開けて寝ている妻の方が断然かわいい。
あまり比べることに真剣になり過ぎてはいけないよ。

こんなくだりがあった。
そういう糸井さんが、奥さんより樋口可南子を取ったときには「ウソツキ!」と怒鳴ったが。。。。
まあ、ニンゲン、理念だけで生きているわけではないので、そーゆーこともあるでしょう。
本人たちしか分からない事情もあることだし。




□CUPOL 「like this for ages」'80□
(80年代初め、大竹伸朗さんがFMにゲスト出演した際に、聴かせてくれた世界の音楽の1つ。
ワイアーの2人・ギルバードとルイスが作ったカポルというユニットの曲。
カポルは、その後ドームという名前に変わる。
カポルもドームも自分の一期一会であり、好物音楽。)

■血眼(ちまなこ)の比較の渦へ
「●●のココの性能があんまり良くないんだよね。それに比べれば▲▲の機能の充実したほうがイイよね」

何も、かたちんば自身がこういう会話と無縁とは思わない。
かつて、中学生の頃、必死にFM雑誌を見ては、オーディオの色んな新機種の品評会を読んでいた経験。
ただ、そこにあったのは、とてもではないが手が届かない代物を「おお、そうなんだ」と遠いものとしてでも愉しんでいた経験。

一方、2012年の見やる周辺の人々。
「あのラーメン屋は、Aより上手いよね」と雑誌片手に、寒空の下、未知の味なのに、まんまと雑誌に吊られて行列する者たち。
店側は実に迷惑だろうが、勝手にベスト10が決められている。



アマゾンに行けば、CDを買おうとすると☆☆☆☆☆で評価点数が付けられている。
自分が聴いて良いと思えば、それで★★★★★なんだろうが。

携帯電話ですら、「B社の701型がC社の501型よりイイぞ。」「いやA社の009型が・・・・。」延々たる比較の渦へ・・・・。
たまに、次々携帯電話をコロコロ替える人(女性が多いように思うが)に出会う。
「わたしの勝手じゃない」そう言われれば、返答するコトバさえ萎える。

あらゆるものに対して比較を持ち出すのは、資本主義の宿命ではあるが、何もそれに100パーセント乗っかる必要は無いというのに。
「疲れませんか?むなしく思いませんか?」
そう心中で思うだけ。

そこに介在し、日本を仕切り暗躍する巨大広告代理店が喜ぶように、尻尾を振って振る舞う人にしか、自分の目には映らない。
資本主義の中で、疾走する事を、後ろから手で押されるようにして、あおられる世界の中で、その手を払いのけて「ええねん」と言わないのは、実に損に思える。



■自分(セルフ)の体感
自分は「世界に1つだけの花~」とか言う歌は嫌いである。
この歌の欠点は、生まれながらにそれぞれは1つの花。
全員が花である必要は無い。
自分は道の端っこに勝手に生えた雑草がお似合い。
犬におしっこを掛けられたり、ニンゲン側の論理で「雑」とひっこ抜かれたり。

ただ、自分は自分でしか無いし、他人とは明らかに違う。
他人の振る舞いに合わせる必要は無いが、他人は「ようく平気で」嘲笑する。
「あんなものを食べているよ」
「あんなものを聴いているよ」
「あんなものを撮っているよ」
「あんなものを好んでいるよ」
「あんな風に生きているよ」
何を根拠に?と言えば、彼らなりの世間というエセ神様。

しかし、社会に属する以上は、それはある程度避けようが無いこと。
小中高生はともかく、大人の自分がいつも思うのは、とりあえず社会の労働場面では一定のルールは守らねばならないので、そのルールにおいて極めて逸脱した行為は出来ない。
しかし、自分個人は、一期一会では無いが、比較の外側で、出会ったものが「おお、こんなものが」と食べたり・聴いたり・匂ったり・いじったりするのが好きである。



昔、絵を描いていているうち、奇妙な出来損ないが出来たりするが、何か自分にはひっかかりがあって良いと思えるものに偶然出会ったりした。
それは、たぶん、外に出せば比較対象にさらされるのだが、そういう必要は無いので、ゴミ屋敷で眠っている。
その眠ったものを「バーン」と挑発的に出した作家が、大竹伸朗のような人なのだろう。



■「にんげんだもの」
相田みつをの「にんげんだもの」という詩が嫌いである。
「にんげんだもの」と言いながら、その本性である野蛮性むき出しにしている様はいかがなものだろうか。
この人はまるで、「人」が神様のように大事なもののように思っているのかもしれないが、「人」ほど駄目な生き物は無い。

さっき出てきた「わたしの勝手じゃない」と言いながら、資本主義に乗るべくクルクル身に付けるものすら変化させて「変態」し続ける人がついよぎる。



■大失敗のない世界
出会った偶然を好んでしまったり、出来損ないにシンパシーを感じる自分。

例えば、寸評や広告を見てその本を買いに行く。
本屋に行くのはそのため、というのは悲しいことである。
本屋は、ぶらりと立ち寄って、偶然出会った本にピピッと反応して買う、という醍醐味のある場所なのに。
その本が、ほかと比較してどうのこうのとは別。



映画。
ようく80年代は、いざ作り始めたものの、作る過程で絡まってしまい何とか作り終えたものの、出来損ないになってしまった。そんな映画があった。
特に日本映画に多かった。

現代では、こういうケースは少ない。
というのも、マーケティングを入念に行った上で、様々な引用を行って作るから、予想外の大失敗は無い。

かつての映画には、あろうことか予想外の大失敗がありえた。
音楽もほかのメディアもそういうものがあった。
そういったものを好む自分は、世間的には「B級好き」「サブカルチャー人」ということになるのかもしれない。

逆に大失敗の無い世界とは、メディアシステムが出来上がったことで、失敗が表面に現れないようなカンペキな世界になったことを意味する。

他人に自分が言われても仕方が無いのは、まだメジャーとマイナーという2つの世界が大きく乖離していた時代に「道の真ん中を歩いているヤツに、ロクなヤツはいない」とメジャーを回避し、マイナーに夢中になっていたこと。

「大失敗」したときに、ぜひ「にんげんだもの」と言おう。
そういうときこそ「にんげんだもの」は使われるべきだ。
しかし、花の無い出来損ないは、そう言われない、というウソに出会う。

コメント (2)
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