
冬至の前に、島の通りにあった店先に「ご自由にお持ちください」と。
ダンボール箱の中には「ゆず」。
ありがたく数個持ち帰って、ゆず湯に入る。
今日も入った。
「ゆず」には、香りや色や形に、日本的なたたずまいを感じる。
つい三ノ輪に居た幼少の頃に、玄関に飾ってあった武者小路実篤の絵を想い出す。
かたち崩れた筆が描いたのは、みかんだった、と思っていたが、まさか「ゆず」ではなかったのではないか?と勘違いもする。
「柚子」「武者小路実篤」とパソコンでは漢字で書けるが、じぶんのペンでは書けない。
デジタル時代のビョーキだ、と思い、出来るだけ走り書きを紙に書くようにする日々。
まるでお年寄りのリハビリテーションではないか、と(親を思えば)笑えない話しだが。。。。

年末という現実味が無い。残り数日というのに。
むしろ、またクスリを1種類やめ・そぎ落としたことで起きている、離脱症状に苦しんでいた週だった。
具象と抽象の境目に漂っている、ふわふわした感覚である。
あまり絶望的なものばかりを書きたくもないが、だからと言って、希望を書くのもそらぞらしい。
そんな折、かつて発見した大竹伸朗さんのインタビューを思い出し、再度読んでいた。
以下引用部分は、大竹さんの東京や3・11に関する私感が覗けて興味深い箇所。相も変わらず、己に正直な方である。
「ドクメンタの参加が決まったのはちょうど3・11の直後で、いろいろ考えるところがありました。
あの出来事を見たら、明治維新から平成まで続いてきた自分が生まれ育った東京という街のひとつの流れに決定的なピリオドが打たれたという気がしました。
放射能問題にしても、人間がまったく力が及ばないところで宇宙が動き、住んでいる世界が簡単に壊れてしまう感覚、仏教でいうところの無常観を強く感じました。
でも、自分は被災者でなく、部外者であり、それをテーマにすることは考えられなかった。
一方で、震災とドクメンタの参加の決定が重なり、絶対的なアウェーで中に飛び込むという境地におかれ、自分としては前に進む以外ありませんでした。
物がつくれなくなったなどそういうことを言う余地すらなく、自分に何ができるのかといったような自問すらできない状況でした。」

アンダーグラウンドに居た初期キャバレー・ヴォルテールを、自分は自分の中で「実験音楽」と当時くくっていた。
ひりひりした中に塩を刷り込むような感じ、または、ミイラ取りがミイラになるように、闇に引きずり込まれるような感じ。
それが、自分を遠ざけたり、それでも、しばらくすると、そこに近付いてみたくなったり。。。を繰り返していた。
1曲だけを聴くならまだしも、1枚聴きとおすのは困難だった。
その後の1983~1984年、ニュー・オーダーの「権力の美学」と共に、これでも「初期にくらべて、ポップになったね」と当時言っていたキャバレー・ヴォルテールのアルバム「クラックダウン」。
深夜、クロスオーバーイレブンでエアチェックして、カセットテープでよく聴いていたのは、静けさの中にエコーする「ハイチ」、それに続いて掛かったタイトル曲「クラックダウン」。
■CABARET VOLTAIRE 「Crackdown」1983■
まだ、年賀状を書くことに向かえないまま、この曲を聴いていた。
この80年代から距離をおいて、90年代のハウス~アンビエントの流れと交わり、「ワープ・レーベル」からリリースされたキャバレー・ヴォルテールの作品や、リチャード・H・カークのソロ作品などを聴くことになった。
80年代の暗黒姿は薄らいでいて、より聴き易くなっていた。
そこでキャバレー・ヴォルテールへの感覚を掴んだ自分は、その後、80年代の作品に余り抵抗が無くなっていき、過去聴けなかった作品も、脳に届くようになった。