今日午後のインターFMに、ケン・イシイさんがゲスト出演していた。
ここで聴こえた新譜「DOTS」からの曲が素晴らしい刻だった。
その番組が終わる時点で、ニューオーダーの「ブルー・マンデー」が掛かり、その音楽の流れに、妙に納得してしまった。30年間どうもしっくり来なかった「ブルー・マンデー」が、初めてしっくり聴こえた気がした。
ケン・イシイの新譜と並んだときに「ああ、そういうことだったのか」と時間を逆回しにするかのような、刻を繋げるものがあった。
■New Order 「Blue Monday」1983■
1983年のシングル「ブルー・マンデー」は、ニューオーダーというバンドを初めてオモテ舞台に立たせた曲だった。それを当時の音楽評論家は、やけに持ち上げ、大げさに語った。
自分が初めて「ブルー・マンデー」を知ったのは、その手合いの音楽雑誌類で、御茶ノ水のディスクユニオンで1,500円で12インチシングルを買った。
イアン・カーティスが首吊り自殺した日が月曜日であったことが、この「ブルー・マンデー」という曲のタイトルのゆえんであったが、音楽評論家の語り口は、と言えば「ジョイ・ディヴィジョンの亡霊を振り払った作品」という具合。
確かにそれは正しいことであったが、自分には出来損ないの実験過程にある「ムーヴメント」の暗さや、その後のシングルたちの方が良かった。安っぽくシンコペイトするリズムボックス、ピーター・フックのギターのようなベースの弾き方、くぐもる不明瞭なバーナード・サムナーのヴォーカル。
特に7インチの「テンプテイション」。
80年代やたらとジョイ・ディヴィジョン/イアン・カーティスを引き合いに出すことにうんざりしていた自分。
それが、この「ブルー・マンデー」にもまとわりついてきて、その空気に嫌悪が拡大していく。
買った12インチシングルは、買ったはよいものの「つまらないし、おおげさすぎる。大した曲とは思えない。」
そして、結果的には、この正規の値段で買った12インチシングルを、中古レコード屋に売って手放すことで、この曲と絶縁しようと決断した。新盤状態だったが、数百円にしかならなかった。
1983年発表の「ブルー・マンデー」。
彼らが唐突に終了宣言させられたジョイ・ディヴィジョン。その後、迷いながら実験・模索を繰り返し、一から音を配置しながら、構成主義的な新しい音像を獲得していった。
それが、このユニット最大の稀有なる存在意義であった。
だが、当時のディスコ、ダンスフロアでかかっている「ブルー・マンデー」には、大いなる違和感を抱いた。
投げやりなところから、自分たちだけで音を組み立てていった、そのいい加減さ・進む道の分からなさ。
それが魅力だったニューオーダーにしては、「ブルー・マンデー」は、当時「かっちり」しすぎている印象をぬぐえなかった。
7インチの「テンプテイション」の素晴らしさは、その出来損ない感覚にリアリティがあったのは事実であった。
テクノとも言えるのだが、そうも言いがたい出発点と成り行きの奇妙さ。
垂直的に視える音、ナイフのように振り下ろされるドラムのショット音。
しかし、「ブルー・マンデー」には、どうも出来過ぎた予定調和感覚を自分に抱かせた。それが、自分を遠ざけた。むしろ、この後の「コンフュージョン」の適当さの方がマシだった。
当時、自分と音楽界が乖離した1曲だった。
「ブルー・マンデー」のモノマネ曲が、SPKの「メタル・ダンス」はじめ、その後たくさん出た。影響を受けたミュージシャンは多かった。
耳で聴こえる音・と・音を聴く行為、および、それが体内に取り込まれて、その人のものになる、というのはすべて別物なのである。
ここで聴こえた新譜「DOTS」からの曲が素晴らしい刻だった。
その番組が終わる時点で、ニューオーダーの「ブルー・マンデー」が掛かり、その音楽の流れに、妙に納得してしまった。30年間どうもしっくり来なかった「ブルー・マンデー」が、初めてしっくり聴こえた気がした。
ケン・イシイの新譜と並んだときに「ああ、そういうことだったのか」と時間を逆回しにするかのような、刻を繋げるものがあった。
■New Order 「Blue Monday」1983■
1983年のシングル「ブルー・マンデー」は、ニューオーダーというバンドを初めてオモテ舞台に立たせた曲だった。それを当時の音楽評論家は、やけに持ち上げ、大げさに語った。
自分が初めて「ブルー・マンデー」を知ったのは、その手合いの音楽雑誌類で、御茶ノ水のディスクユニオンで1,500円で12インチシングルを買った。
イアン・カーティスが首吊り自殺した日が月曜日であったことが、この「ブルー・マンデー」という曲のタイトルのゆえんであったが、音楽評論家の語り口は、と言えば「ジョイ・ディヴィジョンの亡霊を振り払った作品」という具合。
確かにそれは正しいことであったが、自分には出来損ないの実験過程にある「ムーヴメント」の暗さや、その後のシングルたちの方が良かった。安っぽくシンコペイトするリズムボックス、ピーター・フックのギターのようなベースの弾き方、くぐもる不明瞭なバーナード・サムナーのヴォーカル。
特に7インチの「テンプテイション」。
80年代やたらとジョイ・ディヴィジョン/イアン・カーティスを引き合いに出すことにうんざりしていた自分。
それが、この「ブルー・マンデー」にもまとわりついてきて、その空気に嫌悪が拡大していく。
買った12インチシングルは、買ったはよいものの「つまらないし、おおげさすぎる。大した曲とは思えない。」
そして、結果的には、この正規の値段で買った12インチシングルを、中古レコード屋に売って手放すことで、この曲と絶縁しようと決断した。新盤状態だったが、数百円にしかならなかった。
1983年発表の「ブルー・マンデー」。
彼らが唐突に終了宣言させられたジョイ・ディヴィジョン。その後、迷いながら実験・模索を繰り返し、一から音を配置しながら、構成主義的な新しい音像を獲得していった。
それが、このユニット最大の稀有なる存在意義であった。
だが、当時のディスコ、ダンスフロアでかかっている「ブルー・マンデー」には、大いなる違和感を抱いた。
投げやりなところから、自分たちだけで音を組み立てていった、そのいい加減さ・進む道の分からなさ。
それが魅力だったニューオーダーにしては、「ブルー・マンデー」は、当時「かっちり」しすぎている印象をぬぐえなかった。
7インチの「テンプテイション」の素晴らしさは、その出来損ない感覚にリアリティがあったのは事実であった。
テクノとも言えるのだが、そうも言いがたい出発点と成り行きの奇妙さ。
垂直的に視える音、ナイフのように振り下ろされるドラムのショット音。
しかし、「ブルー・マンデー」には、どうも出来過ぎた予定調和感覚を自分に抱かせた。それが、自分を遠ざけた。むしろ、この後の「コンフュージョン」の適当さの方がマシだった。
当時、自分と音楽界が乖離した1曲だった。
「ブルー・マンデー」のモノマネ曲が、SPKの「メタル・ダンス」はじめ、その後たくさん出た。影響を受けたミュージシャンは多かった。
耳で聴こえる音・と・音を聴く行為、および、それが体内に取り込まれて、その人のものになる、というのはすべて別物なのである。