こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2014年8月27日 水曜日 ”私”の「東京物語」

2014-08-27 23:52:27 | 写真日和

チロちゃんと陽子さん
あっ、と何かに気付くのは、ある瞬間だが、それまで精神がドライヴしていたのを忘れる位に出会うとき、それまでが白昼夢の中に居たように思える。
昨年後半、親の看病に奔走している頃は、まさかという・自分が配置していたはずの視界構造の瓦解に、ひたすら過ぎ行く時々刻々を感じ、即応していた。
その後、親の病状好転に伴い、”ほっ”としたのもつかの間、そこで浮かび上がったのは、当人である自分の死であり、いつの間にか自分は送られる側に居ることだった。

昨年後半から”いずれ”ではない”今”を感じつつ、この1年弱を過ごしている。
これはもともと持っているペシミスティックな感情では無い。明らかな事実である。
「じゃあ、そこでお前はどう考え、どう生きる」を問いてきた。

結論は言葉上は”今を生きる”しか無い。当たり前だが、言葉なり概念が如何に信用ならないものかが分かってきた。

***

三島さんが(色々な背景があれども)45歳で自決した時期を、多くの敬意抱く人が気にしてきた事実を、今は装飾抜きで理解する。
コインのオモテとウラで、実は同じような匂いを持つ太宰治の書いた一節は、過去”太宰的な芝居表現”と片付けていたが、今になって身に迫る。

『死のうと思っていた。
ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。
着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい 縞目 が織りこめられていた。
これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。』

何度も女と心中しつつ、太宰だけが生き残る。
それは、猪瀬直樹の取材の下、全て計算ずくであったことが明らかにはなったが、その情動の源は否定出来ない。
また、太宰の観察の眼の鋭さは、死に方うんぬんで済む話ではない。

バブル時代、ラヴホテルの前 消えた場所は駐車場へ
今、海のむこうで多くの生死の境を想像しつつ、堕ちた日本の身の回りを照射すると、他人事(ひとごと)では無い世界を生きなきゃいけないと思う。

もはや世間と乖離してしまった中、週末に写真家・荒木経惟さんが、片目の視力を失ったことを知って、言葉を失くした。

優れた写真家。
という言い方は、歴史を俯瞰的に見られる、死を迎えない神の視点だが、日本人の多くは、自分の生命が永遠に続くと思っている気配がある。
しょせんそれぞれは数十年で終わり、生き残るはシステムという中、せっせとアメリカ傘下のグーグルに吸い込まれるように、東に向かって持たされたSNS機器を通じて、せっせと・ちっこい画面に向かっている。
311という裂け目(キャズム)に一瞬おぼろに見えた景色は、既に閉ざされている。

”ブログも同じじゃんか”と言われるだろうし、理解するが、そういう風にも思っていない。事実はどうあれ。
私は科学者でも無い。

荒木さんと陽子さん 下駄屋から南千住へ歩く夜・銭湯への道
荒木経惟という人には特別な感情がある。
歳の違いはあれど、同じ場所で産まれ育ち、幼児の頃・お母さんにお世話になり、その生き様を追いかけてきた。もはや姿の無い私の原風景が、荒木さんの写真にはある。

それは、”こいつは同郷なんだよ”と盛んに訴える、出雲出身の親父に見い出す”ありがちな”風景では無い。

三ノ輪の酒屋さん前 陽子さん
東京・日本を写真という形で、雄弁な語り部よりも、より大きな何かを示してきた、重要な裂け目を定着し得る才能を持ち得る一人。それは、森山大道さんだったり、YMOだったり、大竹伸朗さんだったりもする。

こういった想いは、人それぞれだろうが、”それぞれ”と生易しい言い方をすると、気が付けば某団体アイドルと同並列で「文化」と言われてしまうから恐ろしい。どうあがこうが、”今”は変化し・過去は潰されていく。
だがらこそ、生きている限りはあらがうしかないし、伝えるしかない。
その後は知らないし、知りえない。

1989年 東京物語

荒木経惟 豊田市美術館「往生写集―顔・空景・道」展オープニング・トーク 2014年6月29日まで開催
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2014年8月27日 水曜日 かたちんば・夏の100曲 ~日々、すべては此処において切なり~

2014-08-27 20:53:19 | 音楽帳

1990年8月末、ひとけの無くなったプール(フィルムカメラ
モノを大事に使っているつもりだが、パソコンとデジタルカメラがどうにもならなくなり、新しいものを購入した。
世間様で流行の”真偽不明エコロジー”にとらわれ過ぎていた。

よく他人から「まだ、そんなものを持っている/使っているんですか?」と笑われる。
20年前に彼女からプレゼントされたポールスミスの財布のように、使えるものは延々と使い続けるものの、少し意地になり過ぎていた。

パソコンは10年前当時、新製品だったVAIO。
電気屋さんに見に来てもらったのは相当前で「もう買い換えないと、いつ壊れるか分かりませんよ」と言われてから相当経過する。

その頃から、データをDVD盤に焼いたり、外付けハードディスクを買って全部データを外に出したり。。。
何度かハードディスクが飛び、リカバリーディスクで初期化するなどの対応でしのいできた。

それもWINDOWS XPの終了以降、見たいサイトにガードが掛かってみれなかったり、いろいろあったが、新しいパソコン設定などの手間を思うと大儀で、腰が重くなっていた。
このあいだ、とあることから勢いで新しい本体を購入した。

1990年8月・夏空
一方、デジタルカメラは、SDカードが立て続けに破損し、この数か月に撮った写真が消える事件が起きて、いろいろ考えた。
”どうせ明日死んでしまうかもしれないのだし”と言いきかせ、なだめた。

カメラ自体もずっと不調だったものをごまかしごまかし使っていたのだが、SDカード側の問題だけとも言い難い要因があるので、新しいデジタルカメラを買った。

2台あるカメラは、どちらも画面にポチポチとくもりが写るようになったのはかなり前。
結論は分かっていたが、それぞれのメーカーさんのセンターに相談に行ったところ、中をクリーニングすれば治るが、その技術料が本体価格以上となる。

今回知ったのは、デジタルカメラはほこりを吸い寄せやすいので、それが内部に付着するものらしい。
撮影時高くなった本体の温度は、終了後冷えていくのだが、その時に細かいゴミを吸い寄せる。

新しいパソコンとデジタルカメラを基本使いながら、既存のモノもまだ使えなくはないので、補助として使っていく。
与えられた残る日々を一緒に、ヨロシクね。
デヴィッド・シルヴィアンではないが、いくら失望しても生きる意志を。

■EPO 「音楽のような風」(ミディ・レコード[ディア・ハート])1985■

新しいパソコンにソフトを入れ直したら、スキャナーが久しぶりに動き出したので遊んでいた。
そのおかげ様で、昨夜寝るのが遅くなってしまった。

私にとって、心のおねえさんの一人・エポさん。
忌まわしき過去を捨て去った名作「パンプ・パンプ」。
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