こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2013年5月12日 日曜日 「母の日に実家へ。。。」

2013-05-12 20:46:36 | 写真日和

昨日は雨で足止めを喰らい、部屋の中で惰眠。しかし一向に疲れは取れない。
今朝、快晴。雨上がりの反動によくあるように、空の青さがひときわ強く、夏のような日差し。
午後、ローカル線にゴトゴト揺られて、実家のお袋さんの見舞い・周囲の片付け・そして母の日のプレゼントを渡しに。





暑いだろうと、お袋・親父に一哲の手造り水ようかんをおみやげに。

母の日に、約束していた、ダヤンちゃんのマグカップ。

それに刺繍されたダヤンちゃんの汗拭きタオル。

購入したら、ポストカードをサービスしてもらった。

それに、ネコの写真集2冊。岩合さんの「ネコさまとぼく」など。

間が持たないので、今週もステッキを突くお袋と近くまで散歩がてら、買い物へ。
歩くのがしんどい状態だが、それでも歩かないと、より悪化してしまうので。




「密かに寂しがっているから、親父と食事してってよ」と言われて、笑点を2人で見ながら、親父と夕飯を摂り、帰る。

帰り道。またキジトラちゃんに出会う。しばし、一緒に遊ぶ。





遊んで振り向くと、2人の様を2匹のノラちゃんが見ていた。


***

今夜は、フリートウッドマックの1987年アルバム「タンゴ・イン・ザ・ナイト」から好きな1曲を。

1986年をもって、リアルタイムの同時進行音楽を追いかけるのをやめたじぶん。これ以降、偶然の出会い、以外の音楽との日々密接な生活は消えていった。
そんな中だが、当時、大学から家に帰って暗闇で独り佇んで、喧騒を離れ・疲労を取りながら、FMを掛けている際に聴こえてきた曲「セヴン・ワンダーズ」。
スティーヴィー・ニックス、クリスティン・マクビー、リンジー・バッキンガム、それぞれの声・歌は好きだが、スティーヴィー・ニックスの歌う「セヴン・ワンダーズ」はきらめくような流麗なキーボードとメロディが美しく、トリコになった1曲。
■Fleetwood Mac 「Seven Wonders」1987■





コチャコちゃん、まみちゃん。
あなたたちのお母さんでもある人を守って上げてください。
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2013年5月11日 土曜日 「音像」

2013-05-11 12:40:02 | 音楽帳
昨夜は、0時頃、暗がりの中で、西部邁さんの番組での語り口に、耳だけを傾けているうちに眠りに堕ちた。最近はこんな具合の堕ち方。
ひさびさにたんまり眠った感触。11時半近くに起きる。

今週は、毎夜遅かったせいもあり、また、昨日は風邪的なものを移されたせいで一日もうろうとしていたせいでもあり。
新しく来られた、明るく楽しい後輩くん。今週はじめに、熱・ノドの痛み等々あると言い出したので、さかんに「すぐお医者さんに行くこと」「大丈夫です」「そうじゃなくて、周りに移ったらいけないからね」このエンドレスの押し問答。
どうやら彼は医者嫌いらしく、その頑固さと応答しているうちに、本人は治り・じぶんは昨朝起きると、ノドの痛み・眼は真っ赤。

昨夜、降り出した小雨は今朝も続いている。雨だれがガラスにしたたり落ちていく。
起きて、ゴーヤ・豆苗・ネギと見る。植物たちは元気に順調に育っている。
その確認を経て、緑茶を入れて一服す。







過去、ぶらっと寄った中古ショップで買ったスティーヴ・ライヒの編集盤を掛けて、聴きつつお茶を頂く。

スティーヴ・ライヒの存在を初めて知ったのは、1981年4月7日。
教授(坂本龍一)のサウンドストリートの第1回目放送のバックで掛かっていた「フォー(4)・オルガンズ」。
4台のオルガンが、それぞれ音を繰り返し鳴らすが、4台はリピート間隔が異なるので・それらがスライドしながら、微妙に交錯していく不思議な音。当時少年だったじぶんが初めて出会った音像と見えない音のエネルギー。「WarHead」や「B-2UNIT」の如く、当時抱いていた「知>感情」の脳を持つ教授(坂本龍一)像とマッチしていた音だった。
■Steve Reich 「Four Organs」1970■

その後、知るに至るブライアン・イーノの「ミュージック・フォー・エアポート」。
ブライアン・イーノが創り出した音楽手法の1つである「偶発性が産み出すチカラにまかせて」創り手のじぶんがその外側から、音を他者として眺めて、その音の流れを調節する程度の役割、という発想の起点。
この発想の源は、このスティーヴ・ライヒであり、またフィリップ・グラスやテリー・ライリーであるのは明らかである。(追記:大好きなエリック・サティも忘れていはいけなかった。)

多くの音楽が「⇒ ⇒ ⇒ ⇒ ⇒」と時間進行と共に「変化せねばならない」あるいは「時間進行という流れに沿わねばならない」というワナにはまった中、ライヒやイーノのこれらの音にあるのは「↑」、決して進まない音楽・時間の流れに対して垂直に立ち続けるものだったり、そのへんをうろうろし・もやのように一定空間に漂う「○」だったりする。
これらの発想はイーノを経由して教授のアルバム「B-2UNIT」の部分にも発見されるし、このアルバムをYMOに引用した細野さんプロデュースの「BGM」に辿り着く。
90年代以降では、ケン・イシイがライヒのリミックス盤を出したり、新しい形での「アンビエント」や「エレクトロニカ」にて、ごく当たり前の手法として展開されている。






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2013年5月9日 木曜日 「隘路(あいろ)を伝って」

2013-05-09 23:09:37 | 音楽帳

新しいモノずき、ファッション、トレンド、なんて言葉。「市況は・・・」なんて言うヒトだったり、メディアだったり。

今では雑誌も買わない自分が、電車に乗って、吊り広告なんてモノを眺めていると「最新の」だの「○○がいま、おしゃれ」だの。必死に、もう回ることの無いカネを回すために、それこそミソもクソもいっしょくたにして、迷走している様が見てとれる。

なにせ、おのれの国で事件を起こすことで、戦争をしかけて、それでもって軍需産業を回すアメリカみたいな(国家とは呼べない)クニまである始末だから。

***

生きている中で、一番影響を後々まで引きずる・一番感性のするどい中高生時代。
産まれる時代は、本人には選びようもない中で、今の中高生だって、やはり「今はこれ」「次はこれ」と、それぞれの道や興味に惹かれていく。

***

じぶんが聴いてきた音楽には、さまざまな遍歴がある。それぞれは自らの脳のどこかに刻み込まれている。
とはいえ、このブログで紹介してきた音楽には、偏りがある。
恣意的な部分が当初あったのは事実だが。
しかし、今では「では、テクノでこんなアルバムもあるよ」と紹介する気が無い。過去は聴いていたが、今、聴こうと思う音楽が極めてせばまっているのが、まさに「今」のじぶんである。
そこにアルバムがあるのに手が伸びない。代わりに、極めて一部のアルバムばかりに手が伸びる。
これを老化の一種、あるいは、視野が狭くなりだした、これがこの人の限界点なんだな。。。さまざまに思われてしかるべきだろう。

かつて、音楽評論家の大貫憲章さんが、ある雑誌の文章で「結局、じぶんにとってクラッシュを超えるだけのものに出会えぬまま、この稼業を続けている」といったことを読んだことがある。
日々新しく出てくる音に対して「あきんど」として、何らかのコメントをせねばならない人からの吐露。
「この人は終わった」と言われていることだっただろうが、何かそんな過去に親近感を抱く。

***

例えば、本が好きな人、あるいは読書家、とか何でもいいのだが、本を読む中で、たくさんの本を読めば確率論として、多くのヒント(CUE)に出会えるのかもしれない。
しかし、一方では、ある本に影響を受けて、その本を数十回読み直したりする。

浅田彰が80年代に語ったスキゾ/パラノなどから遠い、永遠に遠い時代に今いるが、どんなにたくさんの雑多な「情報」なるものを「食べてはウンコして」を繰り返して生きるもよし・別な生き方もよし・・・。
ただ、もうそういう環境と時代では無いと、「今」のじぶんは感じている。
新しいものも古いものも無い・フラットな地点。

***

このところ、ひたすら聴いているのは静かな音楽。よりいっそう。
中学時代に、いっとき「不気味くん」とあだなを付けられたくらいだから。
産まれてこのかたヒネクレ者扱いのじぶんは、当時、暗さの権化になりたいと周囲にあえて背中を向けてあゆむことを選ぶ体質。
その根っこは、未だに変わっていない。

その静かな音とは一方で、やっぱり引力は自らの魂の源に戻ってしまう。
YMO、3人のソロ、あるいは、そこからの周辺音楽。
かつて1982年にブライアン・イーノは「ボクは、10枚のレコードで充分ハッピーになれる」と言っていたが。

本にしろ、音楽にしろ、何十回繰り返してみるものとはあるもの。
それを、視野がせばまった、と捉えるか、或いは、より深く理解したい、と捉えるか、或いは、何度繰り返しても新しい発見がある、と捉えるかは他人の勝手だが、「今」のじぶんはどうしても定番にたどり着いてしまう。本も音楽も。

***

元々、精神を病んだ三歳児状態から、一応まかりなりにも他人と一緒に社会内に置いてもらえるに至るには、極めてリスキーな綱渡りと、ギリギリのラインでの小さく狭い隘路(あいろ)を繋ぎ・繋ぎ、なんとか渡ってきた。
「未来」などは存在せず、「今」というリアルタイムの地点と、体内に残留する想い出だったり・記憶だったりを頼りにして。
つねに「エマージェンシー(非常事態)」の間を縫って。

中学3年生の頃、毎夜聴き込んでいたジャパンのアルバム「孤独な影」。

このA面の最後に「マイ・ニュー・キャリア」なる曲がある。
「ボクの新しい船出に」という内容だが、とてもではないが、そのような明るさは一切無かったことは分かっていた。
むしろ、ここにじぶんはデヴィッド・シルヴィアンもギリギリのラインでしのいでいく中での、一筋の光明を託して「新しい船出」と表現したと思っていたし、三十数年後の今もそう感じる。
■JAPAN 「MY NEW CAREER」1980■


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2013年5月7日 火曜日 細野晴臣 「ラフター・メディテーション」'93

2013-05-07 23:58:25 | 音楽帳

3日(金曜日)から6日(月曜日)の4日の休み。
4日のうちの3日は、ひたすら日差しを避けた・日陰で惰眠をむさぼり、残り1日は実家に兄夫婦と家族集合した。
両手を骨折し・腰まで痛めたお袋さんは、やっと両手のギブスは取れたものの、歩くのも容易ではない。
じぶんがギッキリ腰をやった昨年末に使っていたステッキが、悪い意味で役に立っている。
80をとうに越したお袋さんだが、肉体以外は、相変わらずのヴォルテージで。
ハードロックのCDを掛けながら、天を貫くような腹から出る明るい笑い声で迎えられた。

その日、兄の奥さんと3人で、ゆっくり歩調を合わせながら、食材を買い込むために外を歩いた。
日差しは、まるで夏のように皮膚に突き刺すようで、暑くて、じぶんはTシャツ1枚で居た。

しかし、そこから数日しか経たない夜。
北風の吹く夜の寒さに、異質な皮膚感覚を覚える。
「この日・この夜に、この温度は無いな」と冬用スーツですら寒いさま。
まさに、天と地。

脳が自動生成で喚起させた音は、細野さんの「メディスン・コンピレーション」。

磁力・月と地球の引力が作用していた阪神淡路大震災の前、1994年の秋から・コトが起きる1995年1月まで毎日、営業車を転がしながら聴いたアルバム。
このアルバムには、わたしには地球の地鳴りの音が焼きついている。
それはまあるい地球の地面をクルマが走りながら、夜に浮かび上がる月や空と一体になっていた、私的な経験もあるのだが、それをも越えて、未だ妙にじぶんを包み込む大地や果てなる自然、そして宇宙的な視野での世界の音が聴こえて仕方が無い。
■細野さん 「Laughter Meditation」(Album「MEDICINE COMPILATION ~from the Quiet Lodge~」)1993■
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2013年5月6日 月曜日・ただの休日 コクトー・ツインズ「あばらと血管」'85

2013-05-06 19:13:10 | 音楽帳

肝臓を壊して以来、月一回、肝臓・頚椎ヘルニア等々心身を確認すべく順天堂に通っていたが、心の面での主治医であった貞子先生。医者にも、人事異動なるものがあるとは知らなかった。
3月に行くと、貞子先生は「転勤になることになって、本当は今までの経緯を知るじぶんが診察し続けたかったんですが。。。」

***

ということで、4月から新しい男性の主治医に変わった。
「声に出して読みたい日本語」を書いた斎藤孝さんに似た、若々しい先生だった。
先生は初対面に対して「具合はどうですか?」と、唐突に切り出した。

かたちんば「いつも思うのですが、ハローみたいに、どうですか?という質問に、じぶんは何をどう表現すれば良いか、が未だに迷って答えを出せないでいます。
クエスチョン&アンサーでいうと、どのような文脈でじぶんが何を語るかが、知らぬ同士のこの2人の会話には全くない。
その日本的曖昧さに対するいらだちが、実はわたしの内部で絶えないのですよ。
抗精神薬は、必ず診察を経ないといけない。そこには医者としての判断があるんでしょう。
でも、じゃあ、何を会話したか?と言えば”具合はどうですか?” ”まあまあです” ”はーい、いいですよ。お薬出しときますねえ。”。。。
はーい、いいですよ、とは、何がいいんですか?
あなたが数分の会話で、医者として何を判断されるのかが知りたい。
ましてや、初対面であり、そこには相互の文脈なり・合意形成がなければ、ほんとうは何もあなたは出来ないはずでは無いのですか?悪の権化=製薬会社の回し者じゃあ無いんでしょうから。裏カネもらっているわけじゃないんでしょうに。
教えて下さいよ。わたしは、ここでどんな文脈のどんな言語を語るのかを。語るべきなのかを。
目の前で血を流していれば、そこには対処方法があるべきですが、心はお互い見えない。
見えない中で、曖昧にコトを済ませて、あたかも診察のふりをしながら、大枚を医者が頂戴せしめるのには、じぶんは納得が行かない。」

そこから、本気での斎藤先生との会話が始まり、1時間話した。
彼は、そこまで言われたことがなかったのであろう。言葉をもつれさせながらも、真摯に2人の会話をした。
迷惑と思われようとも、じぶんは、えぐるような本質を語り合える仲にならねばならないと思っていた。

最終的に、お互いのゴールを決めようという話になった。
それは、例えば薬が無くても平気な姿だったり、日々障害と思えるような事態を超えられることだったり。。。

斎藤先生「そうは言えども、10分なりそこそこの時間しか無いのが実情ですから、そういったものを集約した書いた紙などを用意してもらえると、話しの焦点に向けて話が出来る。」
かたちんば「それはいつも用意していましたよ。」
斎藤先生「貞子先生には、それは話せなかったのですか?」
かたちんば「話しても、はーい、いいですよ、で終わり、クエスチョン&アンサーにはならなかったのが実情なんです。」
斎藤先生「まあ。。。あまり他の医師を批判するのはいけないので避けますが、じぶんとはそういう形を取りましょう。」
■Cocteau Twins 「あばらと血管(Ribbed and Veined)1985■




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2013年5月5日 日曜日 雑記帳 「world makes me wonder」

2013-05-06 00:21:41 | 音楽帳

●最近、仕事の行き帰りにチェット・ベイカーを聴いていた。
「チェット・ベイカー・シングス」というアルバム・ジャケットに惹きつけられた高校生の頃。
とはいえ、聴くタイミングを逃したまま時間が過ぎてしまった。そんな中、最近聴いて、その歌声が男なはずなのだが、女性とも思える色気を感じさせる。その不思議な引力。
「ジャズ」というカテゴリーでくくってしまうと、音楽は面白くなくなる。「訳が分からない」なる不思議感覚にこそ、新しい個人にとっての裂け目があり、発見がある。

●近時「ノーベル文学賞候補」と言われる村上春樹なる存在が、理解出来ないでいる。
男子校の高校生の頃、やたらと村上春樹に感化された仲間が居て、彼らが書いた文章を読んだが、そこには「オッシャレー」とか「思わせぶり」な以上のものを感じなかった。
6つ上の兄の部屋にあった「風の歌を聴け」や「羊をめぐる冒険」を、当時読んで見たが、チェット・ベイカーが自らの脳に感じさせる不思議感覚とは異なる、「そこには何も無い」という空虚以外のものを感じなかった。

その後、素浪人を経た大学時代には、彼が訳したレイモンド・カヴァーの「ぼくが電話をかけている場所」も読んだが、やはり「ここには何も無い」という中空(空洞)感覚しかなかった。
その後、短編集「蛍、納屋を焼く・・・」も読んだが不明。

じぶんとは無縁だ、そう思っていたところ、オウムサリン事件の被害者の証言を集めた「アンダーグラウンド」を彼が出すに至って、そこにはじぶんが知っている仕事場の人が出ているのもあって、買って読んだ。
この本自体は、ナマの証言集だったので、分厚いながらも感ずるところは大だったが、それはともかく「なぜ村上春樹がこのような本を出版するに至ったのか?」それ自体が不明であった。
何が彼の表現衝動の根っこであるのか?何が彼を突き動かしているのか?全く不明であることは、今日もじぶんには分からない。

今まで「わたしが文学者と思う文学」を読んできた。
三島由紀夫が、安部公房が、色川武大が、決して取ることが出来なかったノーベル文学賞を、大江健三郎ごときが取ったときに「結局、もうこの世の『賞』は、ぜーんぶ『ショー』に過ぎないんだな」と思った。
文学という辺境の、言葉に表現しにくい「なにがしか」を言語化させる営みさえもが、経済のうちのりに入ってしまった感は否めなかった。

まあ『賞』で本を読むわけではないし「世間」の「騒ぎ」ににぶいじぶんは、古本屋めぐりをしながら、ピピっと来る本との出会いしか求めていないので、どーでも良いと言えば・どーでも良いが、近時の村上春樹騒ぎには、不気味さを覚えている。

●ソロ活動で、常にハイクオリティな作品を出し続けてきた砂原良徳さん。
2001年の「ラヴ・ビート」で、余計なものをいっさい削り落とした上に出来た・到達した世界に、ひれ伏した時から10年。
奇しくも2011年の3・11後すぐに発表された「リミナル」。
10年待って、どうだったか?と言えば、非常に残念に思った作品だった。なぜ?という疑問が去らなかった。

そこから2年が経った。
ほとぼりがさめた今、チェット・ベイカーを片方で聴く中、ランダムに音楽やら録音したラジオ番組を入れた(「アイ・ポッド」ではない・単なるmp3再生機)からたまたまムニューッと出てきた「リミナル」の3曲目「ナチュラル」。
ジャジーな音楽を聴いていた耳であったのもあるが、じぶんの中にひっかかった。
それまでの砂原作品とは別にして、何かがここにはある。そう思う最近。
それをどう語れば良いかは、今、表現しうるコトバを持ち得ていないのだが。
■砂原良徳 「Natural」2011■
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2013年5月4日 土曜日・みどりの日 デヴィッド・バーン「キャサリン・ホイール(回転花火)」'82

2013-05-04 11:50:28 | 音楽帳

1981年から1982年3月。3歳以降あった「じぶんの精神はおかしい」のではないか、という、誰にも言わない世界で内向的に苦悩の日々の中、高校受験という目の前の難行に向けて、灯り1つの机の静かな世界で勉強しつつ、夜な夜な親に内緒でFM「サウンドストリート」「クロスオーバーイレブン」を聴くことを糧に蜜なる日々を過ごしていた。
エリート主義でだけ一致した鬼親二人。慶応・早稲田以外は駄目という中、それ以外も受験した。それ以外は全部合格した中、慶応・早稲田が不合格である限り許さんということになり、それ以外の合格は全部捨て去られ、泣く泣く都電に乗り継いで巣鴨学園の2次募集を受けることになった。そこが妥協点だった。
百数十名で3人という中、その1人に引っかかった。良かったのかどうかは、もはやどうでも良いが、その後、女性が1人も居ない文武両道・右翼的世界の過酷な男子校のアウシュビッツ的世界に飲み込まれていく。

***

1982年3月、もはや行く高校が確定した中、不幸そのものだった麹町中学校という、じぶんが未だに憎しみしか抱かない中学校にて、ズル休みを決行する。
「もう、お前ら(教師・生徒)全員におサラバだ、二度と会うことはない」という絶縁状。助けてくれた心ある数名の友を除いて。
休みの日に向かったのは、まだ寒さの残る平日お昼間の秋葉原電気街。
それまでお小遣いを溜め込んだ十数万円を握りしめて「オーディオ・コンポ」を買うのだと。
いろんなお店を周り、音を聞かせてもらって、カセットデッキ、プリメインアンプ、レコードプレイヤー、スピーカーを購入した。

それが自宅に届いて、やっかいな配線を繋げて聴いたLPレコード。
それまでは、ラジオ・カセットデッキ・プレイヤー一体型の3万円くらいの愛する装置で聴いていた時代を越えて。

【数年前、既にEDION傘下に入ってしまった石丸電気で無理矢理作らされたカード。黙っていると年会費が落ちていくだけ。昨日、EDIONのカード会社に電話して解約する。
オペレーターは「解約する理由をお聞かせください。」「じぶんは石丸電気から電気製品を買っていたが、EDIONから買う気はないので。」
終わりに「今後もご愛顧よろしくお願いします。」「NO!EDIONから一生モノを買うことはないので、じゃあね、ほなサイナラ。」そしてカードを切り刻んだ。】


陽光の満たす中で聴いたのは、新譜として購入したトーキングヘッズのデヴィッド・バーンの「キャサリン・ホイール(回転花火)」。

「リメイン・イン・ライト」「マイ・ライフ・イン・ザ・ブッシュ・オブ・ゴースツ」を経て、トワイラ・サープの舞台用に創った音楽。
ここにも、イーノは数曲参加しているが、基本はデヴィッド・バーンの作品。
当時、このLPレコードには全曲は収まっていなかった。
その後、ミュージック・カセットという形式でLPにも入っていない曲を収めた完全版が出たが、そちらは買わなかった。
よく当時聴いた愛するLPレコード。ガムランの音やコーランのテープを絡めたりと「ブッシュ・オブ・ゴースツ」の余波を感じさせる部分もあったが、グラスハーブで作られた曲やら、イメージスケッチとしてのインストゥルメンタル曲などが、特に美しくてお気に入りだった。

その後、CD時代が到来し、今では全曲入り完全版のCDを持っているが、主要な音は充分にLPレコードに収まっていたことを再確認する。
■David Byrne 「Light Bath~His Wife Refused~Ade~Walking~Two Soldiers~Under The Mountain」1982■


「Two Soldiers(二人の兵士)」では、イーノとバーンのダブル・ベースが味わえる。


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2013年5月3日 金曜日・祝日 「Heart Wind 心の風」

2013-05-03 12:14:40 | 音楽帳

ペンギン・カフェ・オーケストラが1980年ごろから日本で人気となり、来日公演を行った。
しかし、その人気も集まる連中も、今思えば不愉快な者が多かった。
ペンギン・カフェ・オーケストラ自体は、極めて素朴な「へたうま」をも含む味を持った人々だったが、取り巻きにはインテリぶった当時のスノッブ、そして、あたかも高尚なことを述べているかのような評論家やサブカルチャー人。

この我が家のゴミ屋敷のどこかには、その来日公演のライブテープがあるはずだが、今日も遭難中。

仕事をいったん辞めた後に、一緒に沖縄にぼーっとしに行った、福岡の友人Iさんと昨夜2時間近く電話で話し、ビールを呑んで寝たのが3時だったため、今朝は10時半という遅い起床。
起きれば、いつも通り調子悪い立ち上がりだが、心身補正のため、そこからペンギン・カフェをずーっと掛けていた。

1982年春にFM東京の番組「サントリー・サウンド・マーケット」で、ブライアン・イーノのインタビュー特集が一週間組まれたが、その際にイーノと絡んだ/影響を受けた、ボウイや教授などと並んで、ペンギン・カフェ・オーケストラを主宰するサイモン・ジェフスが出てきた。
サイモン・ジェフスはイーノと出会うことによって、オブスキュアレーベルからファーストアルバムを出すことが出来た。
プロデューサーはイーノだが、サイモン・ジェフスがやることにはいっさいクチを出さずに「キミのやりたいようにやって良いよ」と言ってくれたという。

1981年、教授も細野さんもペンギン・カフェ・オーケストラを好んで聴いていたが、このバンドの特性の1つである「好きなときに・好きな人が集まって・好き勝手に音を奏でる」という発想。特定メンバー・構成員は決めない。それは、細野さんが設立したYMOの当初のコンセプトの1つとしてあったものだと言っていた。

サイモン・ジェフスという人は、ほんとうに人そのものが素朴な性格で、雑誌でインタビューを受けた際にも、拾ったか?もしくはコドモ時代から持っていたか?の、手にかぶせて遊ぶ動物の使い古した指人形を大事にしていて、それをインタビューを受けていじっていたモノクロの写真が記憶に強く残っている。

1980年ごろからの日本人気はエセ・インテリ集団の1つのタマだったのを経て(細野さんは”救済の音”として聴いていたが)、東京が次第に病んでいくに従って、ペンギン・カフェ・オーケストラは「癒し」の音楽、環境音楽的特性を強めていく。

1982年「戦場のメリークリスマス」撮影から戻って以来、音楽日記のように日々創っていった数十曲を、どうやってまとめればよいか悩み・迷っていた坂本龍一。
結果として、1984年秋に「音楽図鑑」として発表されるに至るが、その最終過程で、日本に来ていたサイモン・ジェフスと音を奏でた。
同時期に、ペンギン・カフェ・オーケストラは「ブロードキャスティング・フロム・ホーム」(我が家からの放送)を発表。
サイモン・ジェフスが「音楽図鑑」のスタジオで遊ぶ一方、2人で「Heart Wind」という曲を創り「ブロードキャスティング・フロム・ホーム」に収められている。
■Penguin Cafe Orchestra 「Heart Wind」1984■

当時、オンナ遊びの絶えない坂本龍一が、まだ矢野顕子と2人のコドモとの4人の家族が成立しえた時期。
その家にサイモン・ジェフスが泊まったか否かは、記憶におぼろだったが、デヴィッド・シルヴィアン、スティーヴ・ジャンスンは家に泊まったらしい。
その際に、(今思えば)幼い坂本美雨がスティーヴ・ジャンスンに恋をしてしまったらしく、えらくなついてしまい、アッコちゃんが見ても、それは「なつく」というよりも「恋」だったようである。
元ABCのデヴィッド・パーマーも、YMOの面々とは一時一緒のごはんを食べた仲だったが、幸宏邸や坂本邸に泊まったのだろうか。。。

残念ながらサイモン・ジェフスは、1997年に若くして脳腫瘍で突然亡くなってしまったが、ペンギン・カフェ・オーケストラは、今は息子さんが意志を継いで続けているという。
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2013年5月2日 木曜日 「そぼ降る雨の夜明けにて」

2013-05-02 06:52:03 | 写真日和

昨夜もちゃんと睡眠薬を服用し、午前0時前に寝た。
というのに、5時に目覚めてしまう。
肉体よりも脳ばかりを使っているせいであろうか?バランスが悪い。
眼の酷使でじんわり痛む両眼、頚椎ヘルニアによる頚から鎖骨にかけての痛み、すっきりしない・うっすらした頭痛。
まだ時間が早い、と思って寝ようとしたが眠れずに起き出し、ヤカンでお湯を沸かす。
外はすでに夜が明けては居るが曇っていて、少々こつぶの雨が落ちている。

薄暗くも静寂が占める部屋で、ブライアン・イーノとハロルド・バッドを掛ける。
なんとなく。
まだコトバがアタマも・周囲も染めなす前に、なんとなく。
流れるように、そう水の流れや自然が、ルールとは無縁に流れていくように。
音は周囲を満たす。
聴いても聴かなくてもよいまま、この空間に水のように流れていく。
放置したまま、空間を動くじぶん。

■Harold Budd & Brian Eno 「A Stream With Bright Fish」(From「The Pearl」1984)■

こないだ曳舟で出会ってしまったネコのカップがどーしても欲しくて、買ってしまった。
鶴見済さんの本にある「捨てることなく、今手元にあるものが何かに使えないか、をよく考えたりする」「買うという行為をやめてみる」。
それは、ボク自身も実践してきたが、ネコには弱い。



そして、だからと言って、ほかのコップを捨てるということも無い。
ムダな消費行動はしていない生活だが。

数杯お茶を飲むうちに、このまま起きて、仕事場に行こうと思う。

今日もヤマだが「乗り切れれば」明日は休めるはず。

***

先日、両手骨折&腰を痛めた、お袋さんのお見舞いと手伝いに実家に行った。
向かう道の途中でミケちゃんに出会う。座って眺めていると、こっちに向かってきて、しばし撫でたりして遊ぶ。
「ニッポンの猫」らしいネコだったが、実家に行って写真を見せると「ああ、この子、田中さんちのネコだよ。このへんじゃ嫌われているんだよ」。
「なんで?かわいいよ。」
「よその家に勝手に入り込んでイタズラをするんだよ。」
「いいじゃないか、ネコらしくて。」
だれかがいろいろ言うだろうが、自由気ままなこのミケちゃんはかわいい。
ネコはかわいいものだ。

フンか?石ころか?におって分析している。



ゴロンとすりすりする。

と思ったら、今度は背中を掻く。

そしたら、次は何かを天空にみつけたらしく、一点を見上げる。
彼女が見ているあたりを、じぶんも見るが、そこには何もない。

今度は、道を移動して散歩に出掛ける。見つめていると、こちらを振り向いた。


***


イーノとバッドの音は、エンドレスで朝の空間を漂っている。

ネギが少しづつ伸びだした。

豆苗(とうみょう)は、あっという間に生い茂るほどに伸びている。
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