こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2014年8月18日 月曜日 かたちんば・夏の100曲 ~盆明けの夜~

2014-08-18 22:33:58 | 音楽帳

読書はみうらじゅんさんの「さよなら私」から、読みかけだった養老孟司さんの「死の壁」に移ろっていく。時間が無いから、いつでも平行して・いくらでも本を乱読しよう。ルールなど、もう無い。

帰路、風は吹いている。通った公園で早くも鈴虫の音色を聴く。
しかし南風で、むしむしする暑さが充満する熱帯夜。
今までに比べればマシだが、夜になって温度が落ちない。手足に発生した湿疹がおさまらない。311後の夏、紫色にまでなり、かゆくて眠れなかったあの日に比べればマシ。

南風なれど、風通しの良い場所に、ほらまた居た”キジトラちゃん”の目は今夜もまん丸で可愛い顔をして、風に吹かれている。



■ナイン・ホーセズ(David Sylivian,Steve Jansen) 「セロトニン」2006■
今日、合い間にクスリでは無い形で・食などで、精神を浄化させる方法を調べていた。
帰って裸になり、ニンジンをお酢・塩こうじで漬ける。卵と枝豆をゆで、米を研ぎ、ねぎを刻んで納豆と和える。

米をむらし、ニンジンが浸かるまでの間、ナイターを聞いていた。ナイターの中身は全く分からない。ナイターは終わったようで、いきなり、いとうせいこうさんが出てくる。

そのへんにあった1982年8月30日ー9月12日のFMステーションを取り上げ、めくると愉しい。
この日はこの番組をエアチェックしていた、という記憶が、エンピツマークと共によみがえる。

1982年9月1日水曜日のクロスオーバーイレブン。そのメニュー。

1・ジョルジオ・モロダー 「ポールのテーマ」
2・ブロンディ 「オーキッド・クラブ」
3・トーマス・ドルビー 「哀しく無垢な子供たちへ」
4・ジョルジオ・モロダー 「アイリーナのテーマ」
5・ジョルジオ・モロダー 「レパードツリーの夢」
6・クラフトワーク 「ドラゴン・フライ」
7・クラフトワーク 「コンピューター・ラヴ」

1・4・5は、デヴィッド・ボウイも参加した映画「キャットピープル」のサウンドトラックより。

■トーマス・ドルビー 「哀しく無垢な子供たちへ」~「電波(エアウェイヴ)」1982■








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2014年8月17日 日曜日 かたちんば・夏の100曲 ~過ぎ行く日々に、せめてもの杭を~

2014-08-17 13:37:40 | 音楽帳

短いお盆休み最終日。空は曇天。室内なのに28℃と涼しい今日。
起きてすぐ、煮干し・昆布・干ししいたけ・かつをををグツグツと煮込み、ラーメンのダシ取りをする。
植物に水を与えに行くと、ゴーヤくんが徐々に実が大きくなっている。

きゅうりは弱気になる中、ピーマン・ナスは淡々と順調にマイペースで育ち、食べた時にとっておいたカボチャのタネは爆発的に大きくなっている。My Secret Gardenの小宇宙に起きる事柄に、生命を教えられる日々。

ラジオは、高校野球から、安住さんの生放送へ切り替えする。

お盆のあいさつに行くと、両親ともども健康で居てくれる。
お袋は、元気で動き回っている。お互い此の世の束の間の幸福。
兄がお袋にプレゼントしたトーキングヘッズのベスト盤「ワンス・イン・ア・ライフタイム」。つまり一期一会(いちごいちえ)。それを聴いて踊りながら料理を作る80過ぎの母の姿に、マンハッタンの当時の白黒隔てない様を思い浮かべる。こんな偉大な母から産まれたことだけが奇跡。

CD「ワンス・イン・ア・ライフタイム」がエンドレスで流れ、痛みを伴って生きた80年代への想いが走馬灯のように、目の前の今として浮かぶ。



■トーキングヘッズ&ブライアン・イーノ 「ワンス・イン・ア・ライフタイム」1980■

1977年地点で”パンク”的な事象がロンドン・ニューヨークで発生していた。
それに気付かず、ピンクレディーに夢中だった私。
むちむちしたミーちゃんの肢体に、まだ手淫さえ知らない中、もんもんと欲情していた。

洋楽ではクイーンやABBAは知っていても、その翌年に世界の音楽に入っていくとは思ってもいなかった”私”。

トーキングヘッズがパンクに発生したのを知るのは、ブライアン・イーノとの革命的作品「リメイン・イン・ライト」からのシングル『ボーン・アンダー・ザ・パンチズ』とこのアルバムを主軸としたライヴFM。
それを基軸にして前後を聴いてきた。
1980年当時「おおげさな・・・」と思った少年だが、その後いろんな音楽を聴き込んでから、確かに”あれ”は様々な意味での大事件だったと気付く。
コトバで書くこと・と・本当に分かること・には大きな乖離があることを知る。

ベスト盤なるものが嫌いなのは、今も変わりない。カバー曲も同様。
それは”すでに終わった音楽”と表明することであり、総括することで葬り去ることを意味しているゆえがのこと。
アルバム「ワンス・イン・ア・ライフタイム」には”シティーズ”も無いし、言いたいことも大いにあるが、それは私が知らない未来人が勝手に見つける曲として残しておく、と解釈した。

■トーキングヘッズ、ロバート・フリップ&ブライアン・イーノ 「イ・ズィンブラ」1979■













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2014年8月15日 金曜日 かたちんば・夏の100曲 ~夏の日~

2014-08-15 23:33:33 | 音楽帳



■パーシー・フェイス・オーケストラ 「夏の日の恋」1960■
水曜日、ラジオ「たまむすび」を愉しく聞く。
この日は、最近特に耳を惹く”イージーリスニングコーナー”の拡大版という、夏のサーヴィス。
ポール・モーリア、カラベリグランドオーケストラ等懐かしい面々の曲たち。

「たまむすび」リスナーさんのハガキにも多かったが、赤江珠緒さん・博多大吉さんの会話にも「給食の時間に聴いたことがある」。同じように、小学校・お昼の給食の時間に掛かったことを思い出す。
赤江さん・博多さんらが、こういう音が日本で掛かっていた風景を知ることで、まだ自分の足掛かりになる人を知り、妙に安堵する。

しかし、最初に掛かったビリーヴォーンオーケストラの「ブルーハワイ」には、小学校風景よりも、小林克也さん・伊武雅刀さんのスネークマンショーのバックに掛かっていたイメージを、「ポール・モーリア」には、みうらじゅんさんのFM番組に出来た”ポール・モーリアのコーナー”がつい想起されてしまった。

その一方で、午後の昼下がり、FM東京「ワールド・オブ・エレガンス」から聞こえてくる細川俊之さんの「・・・君はなんて美しいんだろう。。。マロニエの道は。。。」という声が聞こえてくる。
または、午前0時からの「ジェットストリーム」の城達也さんの声が。

今でこそこのような事を言い・心地良く聴いているが、かつてそうでは無い季節があった。
イージーリスニングは、BGM(バック・グラウンド・ミュージック)とも呼ばれ、テクノ全盛だった1980年14歳だった自分は、歌謡曲と共に嫌悪の対象としていた。この気運がその後、1981年3月21日発表のYMO「BGM」に繋がっていく。

その後、日本におけるイージーリスニングに、音楽としての権利を戻したのは、90年代初頭「モンド・ミュージック」と呼ばれた時期。
自分は生きることに必死な異国大阪に居て、活路を見い出すべく、隔週「TVブロス」を購読し、そこに記載された音楽評を読んではCDショップに行っていた頃。
95年に発表された砂原良徳さんの1st「クロスオーヴァー」には、このモンド・ミュージックが別の音楽形態をもって表現されていた。

のちに細野さんの番組「デイジーワールド」に砂原良徳さんがゲスト出演した際、「やっと、こういう音楽の聴き方ができるようになったんだね」と言った細野さんの言葉。
音楽カテゴリーは瓦解し、様々な解釈方法で、自由に音楽を聴けるようになった時代を指していた。



■砂原良徳 「747Dub」1998■
80年代・FMを毎日毎日エアチェックする中、当時のニューウェイヴの新譜を紹介する番組「FMトランスミッション/バリケード」(FM東京・土曜深夜3時~)にて、たぶん1984年夏、一曲目がパーシー・フェイス・オーケストラの「シーム・フロム・ア・サマープレイス」だったことに、ひどく驚いたと共に素晴らしいと思った。
選曲家のセンスの良さを感じた。

幸宏が90年代行き詰まりの末に、盟友・細野さんに「何も考えずに、自由に音楽を創りたいなあ」と話したことを契機に、再び2人で音楽を創ることになったスケッチ・ショー。
このユニット一枚目「オーディオ・スポンジ」には、新たな何かが形を成していない暗中模索の中で、細野さんが居るおかげで、肩の力を抜いた幸宏の姿があった。

このアルバムには、意外なカバー曲が入っている。
細野さんが歌うこの曲には、2人が束縛から解き放たれたリラックス感がたゆたっている。

■スケッチ・ショー 「夏の日の恋」2002■


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2014年8月14日 木曜日 かたちんば・夏の100曲 ~セミ時雨~

2014-08-14 22:35:07 | 写真日和



■Pulse(高橋幸宏&スティーヴ・ジャンスン)「Memory Without Consequence」1997■































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2014年8月12日 火曜日 かたちんば・夏の100曲 ~兄貴たちの死生観~

2014-08-12 23:49:49 | 音楽帳

いろんな想いが浮かんでは消える。
その中で、細野さんと幸宏の会話を思い出していた。

ビートニクスの新譜を、細野さんの居間みたいな「デイジーワールド」で紹介。そのときの会話。
明るい細野さんに比して、このときの幸宏氏がやけに暗い。そんな印象を覚えた記憶。

初めてMRIを受診したという幸宏。MRIの際に響くノイズを録音して、音楽の中に埋め込んた曲を掛けた。
MRIは、自分も何度か既に受けているが、断層写真で体内の確認をするもので、ドームのような中に入って撮影を行う。
この際に、ひどく大きな電子音が鳴るので、よくヘッドフォンからの音で緩和措置を計るが、その音を超えてノイズが聴こえる。

自分が記憶に残ったのはその箇所では無く、アルバム制作過程の流れについての2人の会話。
幸宏が「残り時間が少ないから、曲順など考えず仕上げた」と言うに対して、細野さんが「へぇえ、あれ位どの曲をどこに納めるのか、神経質にこだわっていたのに」。

結果的に、このアルバムはこのテープで聴いただけで(それも手元には無いが)CD等を購入するには至らなかった。一体いつの作品なのだろう?と今夜調べてみると2001年。
ということは・・・と計算してみたら幸宏さんは49歳。過渡期の一つだったのだろう。

今の私と近い年齢であることに、そうかとうなづく。昨年後半から身に降りかかる事件に、良い歳をしてやっと我に帰って以降の心境とつい重ねてしまった。

毎朝、文化放送の福井謙二さんのラジオを、時計代わりに聴いている。
とある朝、とある調査についてのニュース。

人は40後半から53歳に掛けて幸福感が薄れていくが、その後は逆転していく、とのこと。
明日どうなるか分からない、というつもり半分で、半分は勘のみで暗中模索続ける。そんな私には、こういったニュースは人生設計なる「ありもしない幻想」。

***

帰路、みうらじゅんさんの本を、引き続き読む。
繰り返しめくれる位に、そばに置いておきたい一冊と出会えた。
2009年みうらさん51歳の作品「さよなら私」。
京都に生まれ、仏像への傾倒から始まり、独自の道を歩き、その末にたどり着いた境地。

当時、FM深夜番組を安斎肇さんとしていたはず。
さかんに「安斎さん、それ安斎さんの脳が思っているんでしょう。安斎さんが思っているんじゃないですよ。」という回があった。養老先生の本を揶揄しつつ、悔しがる可愛い先輩・安斎さんをいじっていたように思う。

そう言いながら、実はみうらさん大真面目に影響を受けていたことが、随所に現れる。むさぼり読んだ中島らもさんを思わせる箇所もあり、実に妙味ある作品である。

■OMD 「フォーエヴァー・リヴ&ダイ」1986■


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2014年8月11日 月曜日 かたちんば・夏の100曲 ~乳の海~

2014-08-11 21:43:25 | 音楽帳

”平和を買いにゆくけど、それは高くつく
平和を買いにゆくけど、それは高くつく

開発地区はいつでも夕暮れ
夜になれば、風がかれらをふぶく” (ゼルダ「開発地区はいつでも夕暮れ」1982)

平和を”ハピネス”と言い換えれば、もっと見えてくる。

いろいろ想うことあった昨日・夢の島。
小学生の頃、学校で「東京ゼロメートル地帯」、天井川、埋立地、地方から流入する者だらけのカオス都市・東京のゴミはねぇ-、みんな”夢の島”に運ばれるんだよ。そう教わった。(ここは大阪でもない。)
排斥と浄化という装置。昔にあった中心と隔離地の在り方は、寸分たがわず今も変わらない。
姥捨て山しかり、本当の歴史の事実。

そんな小学生の頃に、ゴミの山の空に、鳥が舞っているモノクロ写真を見た記憶を覚えている。
ゴミの山なのに「夢の島」とはね。。。
当時みんなその名前に苦い乾いた笑いをしていた。共犯関係がその苦笑いには含まれていた。

しかし、そんな東京の”へり”を巡って、さまざまなイマジネーションを広げた音楽が在った。
ゼルダもしかり、「東京湾岸サウンド」と呼んだ鈴木慶一さんと仲間たちの音楽、あるいは、YMO「テクノデリック」、慶一&幸宏のビートニクス一枚目。

8月10日 日曜日
昨日初めて聴いたのだが、”ねごと””赤い公園”のかっこいい演奏に出会えた。
共に女性バンドであり、滔々とあてやかに歌うヴォーカリストを配し、共にかなりヘヴィーなチューンを鳴らす。

かつてゼルダだったか?何だったか?こんな響きを聴いた記憶が。。。そんな奇妙な感覚に捉われた瞬間が、聴いている中にあった。
彼女らは本気で、2014年夏に音を鳴らしていた。表現に対して忠実だった。

とはいえ、どの子もかわいいのに参る。アイドルでもないのに。。。なんて言ったら”クソ喰らえ”と彼女らは言うだろう。
赤い公園のヴォーカルの方は、白いドレスに身を包み、挑発的な流し目でオペラティックな歌い方をする。
白いドレスは、隠喩として真逆を示し、表現していた。
曲の間に話すしゃべり方は、まさに”アイドルなんてクソ喰らえ”。

土砂降りと突風吹く嵐の中、濡れた女が風になびき歌い・楽器をかき鳴らす姿に、エモーショナルなエロスが漂う。
スピーカーからひび割れた音が響く。どうしようもなく惹かれる。
休みになったらCDを購入し、アルバムとして対峙したい。素晴らしい演奏だった。

深夜、お米を研ぎ、シャワーを浴び、洗濯機を回す。ご飯を食べて2時に横になる。

8月11日 月曜日
足がつり、朝5時に悶絶する。足の指をひんまげるがおさまらず。
手足の湿疹。全身の倦怠感。多くの人が休暇でがらがら電車が清々しい。
仕事場に向かおうと歩き出すが、足つりのせいでもなく、歩いても歩いても前に進まない感覚。ノドはがらがらになっており、声もまっとうに出ない。

表層都市に向かうと、未だ女子力といった幼稚語を、抵抗無く濫用し、メディア戦略に騙され、社会経済に”乗っかる”者たちのありさま。
男があらがったとしても、普通に、女は男より優れてしかるべき存在なのに。これ以上、何をしたいのか?
昨日の優れた女性バンドが示した激情との落差、ぬるさ。

今日、インターFMから流れる曲どれもに、昨日聴いたチューンを越える響きを感じなかった。



■鈴木さえ子(&鈴木慶一) 「血を吸うカメラ」1984(アルバム「科学と神秘」より)■



【デヴィッド・パーマー(元ABC)&鈴木さえ子】


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2014年8月10日 日曜日・深夜 かたちんば・夏の100曲 ~水際の記憶~

2014-08-11 00:54:48 | 音楽帳

8月10日 日曜日
夢の島に野外ライヴを聴きに行く。島と島を行き交う。
往路NHKラジオをずっとイヤホンに。ガラス窓に伝う雨の向こうの空を見ながら、台風の動向を聞き、バスに揺られていた。

覚悟は出来ていたが、終日断続的な土砂降りの中のライヴ。
四月の魚さんに教えて頂いた”メタファイヴ”がトリ。
YMOの「KEY」「バレエ」に始まり、再登場後、土屋昌巳さん・細野さんを配置したメンバーでの「中国女」。

一人居ませんが、32年前1982年の”あの”ライヴの感じで、”あの曲”を。
そう言う幸宏の声に詰まりがあったのは、嵐ゆえのことだったのだろうか。想いゆえか。暗闇で色々考えた。
閉めの曲は「CUE」。

相も変わらず人だかりを回避すべく、暗い東京湾の道を一人歩き、島への帰路を辿る。

■YMO 「Waterford」1993再生ライヴ■


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2014年8月9日 土曜日 かたちんば・夏の100曲 ~八月九日~

2014-08-09 21:59:52 | 音楽帳

雨が降る降る、と一日雨確実が言われていた今日・明日。

もう来るだろうと備え、たまに降ってくる雨。
九州中四国が大変な様から”この後はずっと雨”と思うが、数分降って止み、そのまま曇り。それを繰り返していた。
台風なのに時速15キロ。

薄暗くにぶい光。朝6時起床。
はだかで寝起きし、蓄積疲労で横になったままラジオに耳を傾ける。
堀尾正明プラスー永六輔さん&外山さんー久米さんの放送まで。
猛暑へ臨戦態勢だった日々から低温になり、張っていた身体が緩み、それまでの疲労が出て来た。

午前中洗濯一式、室内干し。お昼、ご飯を炊く。
ナス・キュウリ・ミョウガを塩こうじ漬けしたもの、たまごを茹で、割ってこしょうマヨネーズで味付け。

テレビ新聞から離れ過ぎた為、久米さんのラジオが終わると、ニュースを見聞きする。悲惨を極めるイスラエル、ウクライナ、そして、日本。

日が沈んでから買い出しに。外は風が吹き涼しく、Tシャツでは寒いくらいの温度。
フライパン、チーズ、スポーツドリンク、ネコのハンカチ。
入ったお店から懐かしい曲。ベルリン「テイク・マイ・ブレス・アウェイ」、今井美樹「ティップ・オン・デュオ」。

戻ってお風呂の湯を入れ替える。
湿気で固まった昆布だし顆粒、実家で貰ったお手製梅ジャムを沸かしたお湯に溶かす。梅昆布茶にして呑む。
とうもろこしを茹でて塩をふる。ラジオからナイターが流れている。

■Berlin 「Take My Breath Away」1986■
巨人負けた。
そのまま雑事作業を続けていると、楽しげな語りと音楽が聞こえてきた。
今年に入ってから知った宮治淳一さんの存在。

TBSラジオから流れた親しげな語りは、かつて居たはずのディスクジョッキーの姿。一聴惚れ。
ラジオ日本でも番組を持つことを知る。



1987.7.5記
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2014年8月8日 金曜日 かたちんば・夏の100曲 ~その日は、みんなでネ。~

2014-08-08 21:58:16 | 音楽帳

今宵はテクノで酔いだくれ。私の中の黄金。。。ということで、今宵はテクノにまみれる夜。

1981年5月19日 火曜日
教授のサウンドストリートに”マー坊”こと土屋昌巳さんがゲスト出演。
ともにアッコちゃんの「また、会おね」ツアーさなかで疲弊する、悩める二人の青年の夜話が繰り広げられた。

■一風堂 「ふたりのシーズン」1981■
ゾンビーズ原曲には無い、新たな解釈による「タイム・オブ・ザ・シーズン」。
カバー曲がそれ単独で成り立ちうる、”カバー”の鏡のような楽曲。
コーラスは、アルバム「イーティン・プレジャー」で”細野さんテクノ”に染まったサンディー。

【アルバム「レディオ・ファンタジー」。ジャケットは、大竹伸朗さんの絵。】
高野寛さんも含めて、最近聴いた”誰それか”の「君に胸キュン」カバーに、何の存在意義も無い様とは大幅な距離・乖離がある楽曲。
後に化粧品CM曲「すみれセプテンバーLOVE」でヒットするとダブるように、JAPAN解散ツアーのギタリストとして各国を回った土屋さん。油の乗り切った季節の一曲。

1981→1982年
細野さんは「YMOをやっている最中は、ソロは作らない」と言っていた中、サンプリングマシン”イミュレーター1”を手に入れ、それとプロフィット5だけで制作に臨んだ「フィルハーモニー」を発表する。
主題としては、教授経由で知った現代音楽・ミニマルミュージックへの傾倒がアルバムに全面展開。
そんな中、一曲だけポップなナンバーが入っている。

■細野晴臣 「スポーツマン」1982■

有能なドラマーでありながら、なおかつソロとしてのアーティスト能力を持った人を、幸宏以外に余り知らない。
3枚目のソロアルバム「ロマン神経症」(1981)、そして、内実的に1981年末を持って解散したYMOを経て、1982年春・細野さんが創ったYENレーベル。
そこから発表された4枚目「ボク、大丈夫(What Me Worry?)」。

それと同時に、幸宏初めての国内ツアーが豪華に開かれた。
ドラマーにJAPANのスティーヴ・ジャンスン、ギタリスト・土屋昌巳、サックス・立花ハジメ、キーボード・細野さんらをメンバーに従え、ゲストにデヴィッド・シルヴィアン、坂本龍一、加藤和彦、鈴木慶一ら。
そのライヴのエンディング曲。

■幸宏バンド 「予感(Something In The Air)」1982年7月■

細野さんも半ば冗談めかしてよく言うが、YMOを支えた実のリーダーは幸宏だったのかもしれない。
それを最近、冗談でもおべっかでも無く、よく思う。
細野さんと教授という、2つのまれなる才能のぶつかり合いと途中から強度になっていった反目。
その両極・相反する者の間で均衡を保ち、YMOをカタチ上5年間保たせて、綱渡りの末、見事幕引きまで持っていったのは、ヴォーカリストでもあった、媒介としての幸宏の存在無くてはありえなかったのだろう。

■YMO 「キュー」1982ミュージックフェア■
ヘッドフォン内の音に囚われ、もはや、お互い目配せもしない・鬼気迫るこの演奏が、未だに好きである。これこそがYMOの真骨頂。

どうせ死ぬなら、此の世で出会うことが出来た、大好きな音楽に囲まれて死んでいきたい。
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2014年8月7日 木曜日 かたちんば・夏の100曲 ~内なる海~

2014-08-07 22:42:22 | 音楽帳

80年代の終わりから90年代へ向けて、ハウス経由で変態を起こした音楽は、(新しい解釈による)アンビエントへの流れとなっていった。

80年代の後半ちょい後から、テクノ/エレクトロニクス・ポップは、その最果てで陳腐化し、ただのディスコミュージックになり変わった。
ニューウェイヴ無き後、“ゆーろびーと”なる言葉と音が現れ「踊れりゃ、それでいいじゃん音楽」化していくが、その流れから分派した良質な所産がハウスミュージック内に出てくる。

それがその後、[どこからどこまで]という範疇がないアンビエント。そんな不可思議な四次元領域の音に化学変化を起こす。

細野さんが、この当時の音を「海」に捉えていたが、まさに海のようにさまざまなものが浮遊し包み込む世界。
YMOの終焉に向けて作った佳曲「ロータス・ラブ」で切なくも語った“[世界]の外で逢おうよ”は、国境・経済と違う場所の海で実現した。

■YMO 「ロータス・ラブ」1983→2012■

音楽に限らずだが、 “これは売れる、売ろう”と、音楽産業がムーヴメントを語り出し、カテゴライズしようとし・商品パッケージ作業に入る頃には、するすると日々動くどじょうのように、その音楽は経済意図から外れていく。
特に90年代以降に発生したアンビエントは、そういった傾向が強く、七変化していった。

エレクトロニカも、その変化の中で産まれたもの。「なんじゃ、こりゃ」という良い驚きは、新しい音楽との出会いに重要だが、どこにも「寄せてたばねる」には困る音楽が多く産まれた。

個人的体験としては、1991年から大阪に住まい、レコードが淘汰絶滅していく様を見て、やむなくCDプレイヤーを初めて買ったのも1991年。
そんな90年代以降、多くのアンビエントCDを買っては聴いてきた。ミュージシャン/ユニット個々のCDとは別に、企画モノのコンピレーション盤がたくさんある。
今でも街をほっつき歩いては、CD&レコードショップの中古コーナーで漁ると、奇妙なアンビエントのコンピレーション盤に出会い、ついつい買ってしまう。そんな四半世紀が経つ。

ジャケット買いでしくじったことの方が多いが、コンピレーション盤であれば、どれか一曲くらいは。。。とキズを浅くしようという浅はかな計算もたくさん有った。
淡い期待から買ったCDの渦は、通して聴くというより特定の曲に絞られていくのが往々なるケース。

■Jammin Unit 「Dub Is In The Air」1997■
(コンピレーション「ステイト・オブ・ザ・ニューアート~ブルー・プラネット・レコーディングスVol.1~」より)

昔から静かでゆったりした音が好きである。
ロック一筋の親からは「また暗い音楽聴いているのかい」、周囲からは「眠い音楽ですねえ、よくもまあ堪えますね」と言われる。
別段我慢だけが趣味ではないのだが、繰り返すだけに快感を覚えたり、音がしなかったり・音数が少ないことに安堵したり。

アンビエントは、皆どれも長く、時にアクセントを欠いていたりもするので、雑音雑踏雑談にまぎれ、真剣に耳を傾ける群集は少ない。
踏み潰されて集団はうるさく移動していくのだが、そこと乖離したところで”同じ時空に住むのに、ずいぶんと違うものだ”とつぶやきながら、道端で音を聴いていたりする。

どうやら、その音楽の構成・構造を聴く、というよりは、この皮膚感覚が覚える気配感、そこに感ずるもの、といった要素が大きいようだ。

何がどうとは言わないが、次から次に手持ち電子機器が壊れていく。
この暑さにあっては、機械のほうもしんどいのだろう。
万物は流転していく。
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