ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

死刑廃止への招待(第7話)

2011-10-01 | 〆死刑廃止への招待

死刑は重大犯罪を犯した者に贖罪を果たさせる方法として必要ではないか?

 今回から先、第13話までは叙述の仕方を変え、今度は死刑存置論の側の代表的な論拠ないし反論に対してお答えするという形で検討を加えていきます。

 そのトップを切るのは、応報論です。前回検討した最高裁大法廷判決では蛇足的理由付けの中で社会防衛が強調されていましたが、実際のところ死刑の理由付けの中で最も歴史が古く、かつ現在でもポピュラーなのは応報です。
 ただ、応報といっても、ドイツの観念論哲学者カントのように、およそ人を殺した者には死刑を科さねばならないという絶対的応報の立場からの死刑存置論は現在ほとんど見られず、多くは一定の重大な犯罪、なかでも残酷な殺人犯罪を犯した者に対する応報として死刑を科すべきとする相対的応報の立場からの死刑存置論です。それだけに、第3話で問題としたように、どんな場合に死刑を適用すべきかという「基準」のあいまいさに悩まされ、差別性も生じてくるわけです。
 その問題はさておくとしても、現代の大衆レベルの応報的死刑存置論のもう一つの特徴は、応報のための応報ではなく、罪を犯した者に贖罪を果たさせるという道義的な目的論が加わっているということにあります。
 実際、内閣府が2009年に実施した死刑の存廃をめぐる世論調査の中でも、死刑を容認する理由として、「凶悪犯罪は命をもって償うべきだ」とする割合が次回扱う被害者感情論に次ぐ僅差で二位に挙がっていることは、こうした死刑=贖罪論が根強いことの表れです。
 面白いことに、命をもってする償いという観念は血讐のような有史前・古代の習俗的法観念と連続性を持つもので、先のカントのように、そうした習俗的な要素を捨象した純粋性の応報論こそ「近代的」とも言えるのですが、大衆レベルでは依然として古来の習俗的法観念の記憶が残存しているのかもしれません。
 ただ、別の角度から見れば、応報のための応報でなく、応報‐贖罪という形で応報観念に目的論的な修正を加えることは、それも一つの応報観念の相対化の方向性としてとらえることもできるでしょう。

 しかし、一方では、このように刑罰に贖罪という目的論的意味づけを与えることが果たしてできるだろうかという大きな問題があります。贖罪とは本質的に道徳的行為ですから、良心の発露として自発的に行われてはじめて贖罪としての意味を持ち得るのではないでしょうか。
 これに対して、刑罰とは国家が強制的に科する処分であって、日本の場合、死刑執行は刑訴法に基づいて法務大臣の命令によってのみ行われます。刑罰は有無を言わさず強制的に適用・執行されるものですから、嫌でも科せられるもので、そこには自発性が認められません。従って、刑罰に贖罪という道徳的意味を読み込むことは困難ではないかと思われるのです。
 ただ、受刑者が刑罰を科せられること、とりわけ死刑を科せられることに同意し、あるいはそのことを“希望”するということさえ一部に見られます。このような場合、死刑執行は自殺的な意味を帯びてきます。死刑存置論者にとっては、このような死刑執行こそが“理想の処刑”ということになるのでしょうか。
 しかし、死刑執行への同意とか希望はほとんどの場合、絶望の表れです。多くは元来自殺願望を持っていながらも自殺し切れず、代償的に凶悪犯罪に走り、自ら死刑を望むというパターンですが、このような場合には、死刑執行に贖罪の意味を認めることは無理でしょう。
 もっとも、中には自らの犯罪を恥じ、真摯な償いとして死刑執行を受け入れたという“模範的”死刑囚の伝説もあります。しかし、その人の本当の心境が奈辺にあったか、確実に証言できる人はいません。
 私見によると、贖罪としての死として意味を持ち得るのは自らの手による“死刑執行”、すなわち自殺の場合だけです。もちろん、常識的道徳論において、自殺はいかなる理由があれ正しくない行いとされています。それだから死刑で代用するというのもやはり無理で、自殺と死刑は相互に代替不能な全く別個の事象です。
 ちなみに、贖罪の「贖」とは本来は賠償のことで、従って贖罪とは罪を物―貨幣経済の現代なら原則として金銭―で償うことを意味しています。しかし、犯罪の加害者の多くは低資力か無資力で、被害者側に高額な賠償金を支払う能力がありません。金で償えない貧乏人は命で償え!というならば、それはいささか階級司法的な発想のようでもあります。
 興味深いのは、前出内閣府世論調査では、死刑廃止を支持する人の中でも、その理由として「(犯罪者を)生かしておいて罪の償いをさせた方がよい」という理由がトップに挙がっていることです。
 死刑廃止論者にあっても、大衆レベルではなお「償い」という観念を死刑存置論者と共有し合っているわけですが、「生きて償う」と「死んで償う」とでは、その「償い」の中身は全然違ってきます。「生きて償う」となれば金銭賠償が代表的ですが、それも現実には無理となると、あと「償い」として何が残るのでしょうか。
 結局、「生きて償う」とは「償い」そのものよりは、いわゆる「更生」の領野へ視点移動することを意味せざるを得ないように思われます。

 そういう観点からとらえ直してみると、元来20世紀以降の刑罰論にあっては、応報‐贖罪といった過去の行為への反作用だけで刑罰をとらえるのではなく、教育‐更生という未来志向的目的をより重視することが基調となっています。現代的刑罰にあって、この教育‐更生という目的志向性を完全に否定することはもはや許されないと言って過言でないと思います。
 このことは、単に刑罰体系上懲役刑のように教育‐更生の目的をそれなりに含む刑罰が中核となっていれば足り、例外的にそうした目的を持たない刑罰を存置することは許されるというにとどまらず、すべての刑罰について教育‐更生の目的が含まれているべきことを要請します。
 この点で、およそ教育‐更生の目的を否定する死刑は刑罰体系上居場所を持たないはずなのですが、実は辛うじて運用上、恩赦の制度を通じて死刑にも教育‐更生の目的とは言わないまでも、その要素を持たせることはできなくないのです。
 恩赦は政治性も強い行政権による刑の事後的減免制度ですが、死刑確定者であっても改善の兆しが事後的に相当程度認められれば個別恩赦で無期懲役刑に減刑するといった措置を取ることは可能ですし、そうすべきものでもあります。
 この場合、死刑確定者に対して直接に懲役受刑者のような矯正プログラムを課することはできませんが、自学自習や宗教教誨などを通じて自主的に改善を図ることは認められます。従って、死刑確定者に対する恩赦を積極的に活用するならば、その限りで死刑は運用上教育‐更生の要素を持ち得るわけです。
 この点、国連の自由権規約6条4項は「死刑を言い渡されたいかなる者も、特赦又は減刑を求める権利を有する。死刑に対する大赦、特赦又は減刑は、すべての場合に与えることができる。」と定め、死刑確定者に対する恩赦の権利性を強調しています。
 ところが、日本における死刑囚に対する恩赦は1975年が最後で、以後30年以上にわたり一度もないとされますから、現在の日本政府は「死刑囚には恩赦を与えない」ということを慣例としているように見えます。このような慣例は、すでに批准済みの自由権規約に違反しています。第5話で見たように、批准した条約については憲法上誠実遵守義務がありますから、自由権規約の規定を順守しないことは自国の憲法にも違反するのです。
 自由権規約の規定を順守し、死刑確定者の恩赦を十分に保障するためには、死刑判決確定からしばらくは確定者の改善状況を見るため、少なくとも二、三年は執行を控える必要があり、この面からも死刑確定後6ヶ月以内の執行を定める刑訴法の規定は不当なものと言わざるを得ません。
 本来、改善ということに期間の制限などないはずですから、自由権規約の規定に忠実に死刑確定者に対する恩赦を「権利」として受け止めるならば、およそ死刑執行は事実上凍結せざるを得なくなるでしょう。
 実際、第5話で指摘した死刑執行停止国の中には、死刑判決は出し続けながらも、死刑確定者を例外なくすべて一定期間経過後に恩赦減刑するという、日本政府とは全く正反対の慣例を持っている国もあります。

 かくして、死刑確定者に対する恩赦の積極的な活用は、第2話で見た再審請求権の尊重と並んで、死刑廃止へのもう一つの道なのです。そうであるからこそ、死刑存置に固執する日本政府は死刑囚の恩赦に否定的であるのでしょうし、かの絶対的応報論のカントも恩赦制度そのものに批判的であったのでした。

コメント

良心的裁判役拒否(連載第7回)

2011-10-01 | 〆良心的裁判役拒否

理論編:裁判員制度の仕掛けを見抜く

第4章 「平成司法改革」の舞台裏

(1)「平成司法改革」の狙い
 第1章でも初めに少し言及したように、裁判員制度は1999年に始動した大規模な司法改革―これを「平成司法改革」と呼びます―の一環として制定されたものですが、この「平成司法改革」の中で、裁判員制度は実は付け足し的な意味しか持っておらず、この「改革」の最大主眼は圧倒的に弁護士数の大増員に置かれていたのでした。
 弁護士大増員策と裁判員制度という一見して関係なさそうなものがどこで結びつくのか━。この謎を解く前に弁護士大増員の持つ意味を把握する必要があります。
 日本では明治維新後、近代国家創りを急ぐに際して、圧倒的に行政権主導の国家を目指したため、多数の行政官僚を擁する一方、弁護士や裁判官をはじめとする法曹の数は低く抑え、「小さな司法」を維持してきました。このような方向性は敗戦をはさんで戦後も続いたため、法曹共通の資格試験である司法試験は年間合格者がわずか数百人程度という超難関となり、まるで前近代中国の官吏登用試験「科挙」のような様相を呈していたのです。
 こうした状況が一変したのは、1990年代です。この時期の日本はバブル経済の崩壊を契機とする長期不況に突入しており、その打開策として規制緩和・民営化を柱とするいわゆる新自由主義の経済戦略が財界の要請をも背景に打ち出されてきました。
 この戦略は、従来とは逆に、行政権を縮小して「小さな政府」を目指す一方で、民間資本主導の経済社会を構築するために、それまであまり活用されていなかった司法を経済社会の調整役として活用しようという方向に踏み出していったのです。
 このことは、「平成司法改革」の基本法として2001年11月に制定された司法制度改革推進法第1条に「この法律は、国の規制の撤廃又は緩和の一層の進展その他の内外の社会経済情勢の変化に伴い、司法の果たすべき役割がより重要になることにかんがみ」云々と明記されていることからもはっきりしています。
 こうした新自由主義的司法改革戦略の中心は、民間資本と密着して協働する弁護士の増員策にありました。そのために、司法試験の合格者増を通じた弁護士大増員―言わば法曹資格の規制緩和―とそれを担保するための新たな法曹養成制度である「法科大学院」の創設が打ち出されたのです。
 しかし、弁護士業界、特にその代表団体である日本弁護士連合会(日弁連)は従来、弁護士大増員には強く反対していました。このことはしばしば弁護士の既得権益護持の態度として非難されがちですが、必ずしもそうとは言い切れない事情があります。
 日本では先述したように、およそ1世紀にわたり弁護士数を抑制する政策が採られてきた結果として、「弁護士要らず」の社会が形成されてきたのです。
 弁護士が少ない分、司法書士、行政書士、社会保険労務士、弁理士、税理士など特定分野に限定して一定の法的事務を処理する法律専門資格が林立しているのはその現われです。こうした特定分野の法律専門家たちは、諸外国ならば弁護士が処理するような仕事を請け負っています。また、企業・団体の法務部門も弁護士を雇う代わりに、内部養成した法務スタッフを配置して法務を担当させることが一般です。
 結果、弁護士に残された職域はほぼ訴訟代理人業務が中心となりますが、それですら民事訴訟では弁護士を訴訟代理人に立てる必要はなく、本人訴訟が広く許されている次第ですから、日本社会では現在でもなお「弁護士要らず」なのです。
 こういう状況で、単純に弁護士数だけを急増させれば、「資格あって仕事なし」のペーパー弁護士が大量に生じ、また少ない仕事の奪い合いによる収入減をもたらします。結果は、弁護士の質的劣化と悪徳化で、そのツケは弁護士を利用する私ども市民に回ってくるわけです。
 従って、日本で弁護士を大幅増員するためには、少なくとも(ア)多岐に分かれた法律専門資格を弁護士に統合すること(イ)民事訴訟に弁護士強制制度を導入することという二つの前提条件を満たす必要があるのです。
 ところが、(ア)は多数の所管官庁及び関係業界との調整・協議が必要になること、(イ)はセットで弁護士費用等を公費で援助する法律扶助制度の大幅拡充が必須で、財務省・与党の同意が欠かせないことといった困難な事情があり、現状では実現のめどが立たないことから、「平成司法改革」ではこれら前提条件の整備を回避したまま、弁護士大増員だけを実行するという乱暴な策に出たのでした。
 そういう無理を押し通すためには、日弁連を説得し倒す何らかの取引材料が必要になります。それが「司法参加」だったのです。なぜ「司法参加」が取引材料になるかと言えば、弁護士の間ではかねてより司法制度の民主的改革の切り札として陪審制の導入を望む声が根強く、日弁連もそうした提言をしたことがあるからでした。
 その点に最初に目を付けたのが、当時の与党・自民党です。同党は第1章でも紹介した1998年の司法改革に関する報告の中に、検討課題として「陪審・参審」を滑り込ませたのです。
 こうした日弁連にとっては宿願でもある司法参加の導入をちらつかせつつ、一方では弁護士増員に消極的な日弁連を「既得権益にしがみつく守旧勢力」として世論に印象づければ、日弁連を大きく揺さぶることができるわけです。
 ただ、はしがきでも述べたとおり、陪・参審制と裁判員制度は似て非なるものですから、自民党の誘い水的な提言が直接に裁判員制度に結びついたわけではありません。関係者も妥協の産物であることを認めている裁判員制度なるものが姿を現すまでには、法曹界に舞台を移しての一種の裏取引があったのです。

コメント

ライフ・リセット社会へ

2011-10-01 | 時評

失業給付を受給できない求職者が生活費を公費で支給されながら職業訓練を受けられる新たな再就職支援制度が今日からスタートするという。この制度に一縷の望みを託す人たちの意気をくじくつもりはないけれども、この制度の実効性には悲観的とならざるを得ない。

まず、具体的な制度としても、これはリーマン・ショック後の急激な失業増に対応すべく緊急的に創設された同種制度の恒久化にすぎない。そのコンセプトは民間事業者に補助金を与えて「訓練」を丸投げするもので、中には少子化に伴う生徒減に悩む受験塾がにわか仕立てで成人向け職業訓練コースを設置し、宣伝しているケースさえあった。補助金狙いと言われてもやむを得まい。

もともとこうした制度は欧州諸国によく見られる類似制度を中途半端に形だけ真似たものである。本場の制度は、大学や日本で言う専門学校のような正規の学校が責任をもって本格的・体系的な職業訓練をするもので、補助金目当ての営利事業者に丸投げするものではない。

しかも、欧州には日本のような一斉新卒採用の慣行はなく、むしろ日本で言う「既卒」や「中途採用」が当たり前という社会。だから、再就職支援の効果は比較的高い。日本では、元来例外的・緊急的な再就職支援の恒久的効果は期待できない。 

そのうえ、こうした再就職支援制度一般に内在する本質的な限界もある。いくら訓練しても、資本主義労働市場では雇い主に採用の主導権・裁量権がある以上、訓練修了者の採用を雇い主に強制することはできないからである。一方では、中途半端な訓練を受けた人を安く搾取できる点に目をつけた雇い主によって低賃金労働に使い回される危険もある。

再就職支援制度は、本質的に人生やり直し=ライフ・リセットが自由に認められる社会システムの下ではじめて効果を発揮する。そういう点では、程度の差はあれ、ライフ・ステージによる就労上の制約が強い資本主義社会では、労働市場における労使の非対称な力関係とも相まって、再就職支援は本質的に機能しにくい制度なのだ。

経済情勢がどうあろうと新卒採用にこだわる画一的な雇用慣行が残る一方、官民問わずコネ就・転職が隠然と行われ、公務員採用に年齢制限を設けて政府が率先して雇用上の年齢差別の模範を示している日本では、ましていわんやである。

びほう策的発想に走るのでなく、正面から、ライフ・リセットが自由に認められる新たな社会システムの構想を練るべき時ではないか。

コメント