理論編:裁判員制度の仕掛けを見抜く
第5章 真の「司法参加」とは?
(1)「司法参加」と「司法動員」
裁判員制度を言わば合作した政府と法曹界は、これを民主的な「司法参加」の制度であると宣伝し、正当化を図ってきました。
この点、裁判員制度を提言した審議会の意見書は、同時期の政治改革や行政改革、規制緩和等の経済構造改革など一連の新自由主義的諸改革と通底する「平成司法改革」に流れるエートスを「国民一人ひとりが統治客体意識から脱し、統治主体として、互いに協力しながら自由で公正な社会構築に参画し、この国に豊かな創造性とエネルギーを取り戻そうとする志」とイデオロギシュに総括しつつ、裁判員制度の意義については次のように説明しています。
「一般の国民が、裁判の過程に参加し、裁判内容に国民の健全な社会常識がより反映されることによって、国民の司法に対する理解・支持が深まり、司法はより強固な国民的基盤を得ることができるようになる」
「統治主体」とか「国民的基盤」とか聞き慣れないあいまいな言葉が登場しますが、一応これらは憲法にも定められている国民主権の理念を言い表そうとしているように読めます。しかし、果たしてそうでしょうか。
ここで実際に出来上がった裁判員法1条を見ると、こう定められています。
「この法律は、国民の中から選任された裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続に関与することが司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資することにかんがみ・・・(以下省略)」
これと先の意見書の説明とを比べてみると、「国民的基盤」というキーワードが「国民の健全な社会常識」という語とともにそぎ落とされていることがわかります。
この点で意見書と法1条は整合しておらず、ずれていると解することもできますが、意見書の提言を受けて制定された以上、両者を整合的に読むのが一貫するでしょう。
そこで、法1条を踏まえてもう一度意見書の説明を読み直すと、そこで言われる「国民的基盤」とは、法1条が定める「司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上」という権力への理解・信頼調達に役立てる限りでの消極的な「基盤」にすぎず、国民が主権者として司法権を行使し、または司法権の運用を監督するという積極的な「参加」を意味するものではなかったのです。
従ってまた、「平成司法改革」の総論的なキーワードとして意見書が示した「統治主体」も、法1条が規定するような権力への理解・信頼調達の対象として国民が動員された限りでの司法協力の主体性でしかないと把握できますし、裁判内容に反映されるべき「国民の健全な社会常識」なるものもそうした「司法動員」の趣旨にふさわしい「健全さ」、すなわち「犯罪との戦い」における重罪に対する厳しい処罰意識でなければならないわけです。
このように、裁判員制度は「司法参加」ならぬ「司法動員」の制度です。この点をはっきりと弁別しなければ、「日本型司法参加」といった公式PRに絡め取られてしまうでしょう。
この制度は「日本型司法参加」という点ではなく、法曹界をも含む21世紀の日本支配層が生み出した「司法動員」という新しい統治技術である点に独自性が認められるのです。
その真の狙いについて、日本の良心的な法学者の一人である小田中聡樹氏(東北大学名誉教授)の言葉をお借りするなら、「国民に刑事裁判参加を義務付け強制することを通じて権力層に抱き込み、「統治主体意識」つまりは権力的意識・処罰意識を注入し、国家的な処罰・取締体制の基盤を強固なものとしていくことにある」とまとめることができるでしょう。
(2)陪審制と参審制
それでは真の「司法参加」とは何なのでしょうか。それは一般市民(国民に限らず、永住権者など一定条件を満たす外国出身者も含む)が主権者として直接に司法権を行使し、または司法過程への参加を通して職業裁判官による司法権の行使を監督するシステムのことです。
このうち、一般市民が直接に司法権を行使する司法参加制度の代表例が陪審制です。もっとも、直接に司法権を行使するといっても司法権のすべてを一般市民が行使するわけではなく、通常は有罪・無罪の評決が中心です。従って、陪審裁判は被告人が起訴事実を争う場合にしか開かれません。
一方で、有罪・無罪の結論に関しては職業裁判官が陪審評決に拘束されるため、急進的な一面を持ちますが、反面で証拠の取捨選択や法律解釈、さらには量刑も職業裁判官の専権に委ねられます。
ただし、アメリカでは死刑の当否に限っては陪審員が判断する「死刑陪審」があり、この場合は陪審員が量刑についても権限を有することになります。
いずれにせよ、陪審制は伝統的に12人制と多人数で、かつ評議は全員一致制、いくぶん緩めても全員一致に近い特別多数決制を採ることが一般です。
これに対して、参審制は一般市民が職業裁判官とともに審理に臨み、判決する制度です。その形態だけを見ると、裁判員制度は参審制に近いわけですが、本来の参審制は審理を裁判所(官)が主導していく職権主義の構造を前提として、裁判官の職権行使を一般市民が現場でチェックするという民主的監督の機能を期待されている制度であって、裁判員制度のように「司法動員」とは本質的に異なっています。
従って、参審員の数は一般に少なめで、参審制の本場ドイツの場合2人だけです。しかも、陪審員のようにくじによる無作為抽出ではなく、団体などの推薦による任命制を採るのが一般です。これは、職業裁判官の「監督」という任務を果たせる人を予め精選する趣旨によるものでしょう。
ちなみに、フランスは重罪事件の審理に限り[追記:2012年より、軽罪事件にも一部拡大]「陪審制」という名で実際上は職業裁判官3人とくじで選ばれた「陪審員」9人[追記:2012年より、第一審では6人、重罪の第二審では9人に改正]が合議で審理・判決する制度を持っていますが、これは実質上参審制にほかなりません。
参審制という形態から見ると、日本の裁判員制度はこのフランスの制度に最も近く、模倣した形跡もなくはないのですが、有罪の評決をするには原則(重罪第一審の場合)として裁判官と陪審員を合わせた9人のうち6人の賛成を要すること、陪審員が軽罪第一審や重罪控訴審にも参加することなど、重要なところで相違点があり、両者を同列に扱うことはできません。
そもそもフランスの場合、かつては文字どおりの陪審制を採用していた時期があり、それが言わば型崩れして現行制度に落ち着いたという歴史的経緯があるために今なお「陪審制」の名を残している点でも、前章で見たような特異な経緯でひねり出された日本の裁判員制度とは同視できないのです。