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天皇の誕生(連載第1回)

2011-10-24 | 〆天皇の誕生―日本古代史異論―

プロローグ

 「天皇の誕生」というテーマは、正史・通説の立場からすれば、さしあたりは『古事記』(以下、『記』)及び『日本書紀』(以下、『書紀』)を参照のこと、と言うだけで済んでしまう。果たしてそれによると━
 天皇の祖は、皇祖神・天照大神の神勅によって高天原より日向に降臨した瓊瓊杵尊〔ニニギノミコト:以下、ニニギと略す〕であり、その三世孫になる彦火火出見〔ヒコホホデミ〕が大和に東遷し、在地勢力を征服して初代神武天皇として即位する。その後、累代にわたってすべてこの神武の子孫が連綿として皇位を継いでいる。こういうことになる。
 しかし、第26代継体天皇は第25代武烈天皇の近親者ではなく、第15代応神天皇の五世孫とされ、『記』及び『書紀』(以下、総称して『記紀』)の立場によっても継体朝は実質上新王朝と言ってよいのであるが―私見は本文で示すように異なる―、総体として神代から切れ目なく日本独自の土着的な王朝が続いているというのが、『記紀』の筋書きとなっている。
 今日ではさすがにこうした筋書きを鵜呑みにする学説は皆無であるが、戦前は「天皇制ファシズム」の核心思想として絶対の権威を持った皇国史観の史料的根拠として大いに利用されたところである。
 とはいえ、3世紀後半頃から4世紀初頭の早い時期から、後に天皇王朝となるヤマト王権がすでに成立しており、現皇室に至るまで連綿として実質的に同一の王朝が継続しているといった考え方の大枠は今日でも保持されている。
 特に近時は、『書紀』で第7代孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫命〔ヤマトトトビモモソヒメノミコト〕の墓と明記される箸墓〔はしはか〕を中国史書『魏志』に現れる有名な邪馬台国女王・卑弥呼の墳墓と結論先取り的に推定した上で、箸墓の築造年代が最新の放射性炭素年代測定の結果、3世紀半ばと結論づけられたことから、箸墓が「卑弥呼陵」である可能性が高まり、従って邪馬台国畿内説が裏付けられたとみなして、邪馬台国をヤマト王権の前身勢力として天皇王朝前史に組み入れようとする見解が急速に有力化してきた。
 このような講壇考古学・史学の動向は、戦前の神話的な皇国史観に対して、科学的な考古学の衣をまとった新皇国史観と呼ぶべき実質を秘めており、本文で改めて批判的に検証していく。
 ここではさしあたり、古墳の年代と歴史的な「天皇の誕生」プロセスとは分離して考察されるべきではないかということを提起しておきたい。古墳の年代測定は科学技術を駆使して客観的に行われるべきことであるが、「天皇の誕生」プロセスは『記紀』の批判的読解(クリティカル・リーディング)を通じて探求されるべきことである。
 本連載はそうした試みの一つであるが、その結果として、正史・通説とは大いに異なるヘテロドクスな帰結に到達することとなった。このことは孤立を招くかもしれないが、本来言論の自由とは孤立を恐れず言挙げすることを意味したはずである。ただ、このような言挙げという所作は日本社会では好まれないことの一つであろう。
 しかし、『書紀』によると、ニニギが降臨を命ぜられた葦原中国〔あしはらのなかつくに:日本列島〕は騒がしく、「草木がみなよく物を言う」と評されている。ここで「草木」とは民衆を象徴しているとすれば、いにしえの日本民衆はよく言挙げしていたようである。それを言挙げしづらくさせてしまったのは、やはり「天皇の誕生」とも無関係ではないだろう。
 本連載は、日本におけるそうした“歴史のタブー”に独力で挑もうとした知的格闘の記録と言ってよいかもしれない。格闘の過程ではいささか脱線もあるかもしれないが、その点ご容赦いただければ幸いである。

〔注〕
『書紀』と『記』では人名や神名の表記・読みにも違いが見られるが、本連載では特に断りのない限り、『書紀』での表記・読みに従う。

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リビアの教訓

2011-10-24 | 時評

リビア内戦が前最高実力者カダフィの「殺害」をもって一応終結した。

それにしても、2月の民衆蜂起に始まった一種の革命戦争では、推定で5万人という犠牲を出した。これは日本の3・11の犠牲者数をはるかに上回る今年最大級の惨事である。

こういうことになったのも、欧米(特に欧州)が武力介入したことが大きい。武力介入のせいで、交渉を通じた平和的な民主化移行の可能性が奪われてしまったのだ。

元来、リビアでは民主化はさほど困難ではなかった。なぜなら、カダフィの体制ジャマーヒリーヤは―世界の常識に反して―「民主的」だったからである。

カダフィ時代のリビアには政府も議会もなかったと言われるが、正確ではない。ジャマーヒリーヤでは一種の国会である人民会議に全権が集中されており、その下に行政機関に相当する公的機関が設置されていた。そのため、「直接民主主義」を標榜したわけだが、実際上文字どおりの「全員参加」ではなく、言わば国会が政党抜きで直接統治するといった意味での「直接制」であった。

形態としては、ロシア革命後のソヴィエト制に似るが、ソヴィエト制以上に徹底した人民統治の仕組みを目指していたとも言える。

ちなみに、このジャマーヒリーヤという語はアラビア語で共和国を意味するジュムフーリーヤをもじってカダフィが造語したとされるが、「国」ではなく「人民共和体」といったニュアンスになり、そこには国家なき社会運営を志向する意義も認められた。

実際、「独裁者」カダフィは元首的地位には何ら就いていなかった。だから、カダフィーが蜂起した革命勢力から「辞職」を迫られた時、彼が「私には辞職すべきいかなる地位もない」と反論したことにはタテマエ上嘘はなかったのだ。

それが実態としてはどう贔屓目に見てもカダフィとその一族の独裁体制にほかならなかった最大の原因は、ジャマーヒリーヤの創始者自身にあった。カダフィがカダフィ体制にとって最大の障害物だったのだ。

彼は、自らが青年将校団リーダーとして指導した1969年の共和革命後、しばらくは占めていた元首の地位を表向き退いてからも、なお非公式に全権を握る闇将軍であり続けた。成文憲法もなく、タテマエ上政府もないのだから、彼の非公式権力は無制約であった。「直接民主制」ならぬ「直接独裁制」。このことが実際、ジャマーヒリーヤをほとんど帝政のようにならしめたのだった。

裏を返せば、「カダフィ抜きのカダフィ体制」を平和的に再構築することができれば、それは民主化への道であったはずであった。しかし、欧米主導の民主化を狙う欧米の介入により凄惨な内戦となり、カダフィは「殺害」―その真相はまだ不明である―された。

ただ、暴力的な形ではあれ、カダフィが取り除かれた以上、改めて「カダフィなきカダフィ体制」を再構築する可能性も生まれているが、欧米の軍事介入支援によって成立する新政権は欧米の注文に従い、欧米推奨の議会制を志向するだろう。しかし、それは新たな内戦の道となりかねない。

議会制の母国や多くの継受国でも、議会は利権を絡めた党派間の足の引っ張り合いのアリーナと化しており、とうてい有効に機能しているとは言えないことは周知のとおりだ。

こういう制度をアラブ諸国のように部族対立や宗教・宗派対立のくすぶる土壌へ移植すれば、党派対立の形態で部族対立や宗派対立が発現する危険が高い。米英とその有志諸国による侵略でサダム・フセイン独裁体制が倒れた後、米英の指導で議会制が強制されたイラクはその好例である。

リビアでは部族対立や宗派対立は少ないとされるが、それも闇将軍の鉄拳で抑え込まれていただけだとすれば、政党政治の導入によってこれまで抑圧されていた対立が一挙に噴出する恐れもある。すでに暫定政権の発足が革命を担った反カダフィ勢力内の対立から遅れているとされ、各地の民兵勢力の武装解除が進まないことも、それを暗示している。

ジャマーヒリーヤの本質を偏見なしに再検証し、その遺産を活用することで新たな内戦を避けることが可能となるだろう。その意味からも、リビアそのものより「リビアの石油」に利害関心のある欧米の干渉を排除した新体制作りが望まれる。

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