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死刑廃止への招待(第11話)

2011-10-29 | 〆死刑廃止への招待

死刑制度は、重大犯罪によって侵害された法秩序を回復し、維持していくために必要ではないか?

 今回取り上げる議論は「法確証論」とも呼ばれますが、これは過去4回分で見てきた議論(応報・被害者感情・犯罪抑止力・社会防衛)とは異なり、一般大衆の間ではなじみが薄く、主として法律家・法学者の間でよく見られる議論です。
 そして、これこそが、日本における死刑存置政策の牙城・法務省のイデオロギー的立場でもあると考えられます。実際、前にも触れた三年四ヶ月間の死刑執行休止状態の後、1993年3月に執行再開に踏み切った当時の後藤田正晴法務大臣は、最大の理由として「法秩序の維持」ということを強調していました。

 このような議論の沿革は、ドイツ観念論の完成者ヘーゲルのまさに観念的な法理論にあります。その概略は次のようなことです。
 犯罪とは法の否定であるところ、その法の否定を再度否定すること(否定の否定)が刑罰であり、そのことを通じて、犯罪によって侵害された法秩序を回復し、維持していくことができる。そうでなければ、法秩序は損なわれたままであり、まさに無法状態となってしまう。そして、犯罪者においても、自由な意思に基づいて法を否定することによって、自ら勝手な「法」(例えば、人を殺してよい)を作り出した以上は、その自ら作り出した「法」(人を殺してよい)に基づいて法益を剥奪されること(例えば、死刑によって生命を剥奪されること)に同意したも同然であるから、刑罰の発動は犯罪者の自由意思に基づくものである、云々。
 このような抽象的なロジックにあっては、刑罰の犯罪抑止力や矯正上の効果があろうとなかろうと、また被害者感情がどうあろうと、とにかく法に基づく刑罰は法秩序維持のために発動されなければならないという形式論が打ち出されます。格言的に言い換えれば、「法は法である」「法は法のためにある」というトートロジーとなります。
 これを死刑論議にあてはめると、「死刑制度は法秩序維持のために不可欠である」とか、「死刑執行は死刑制度が存在する限り、絶対的義務である」といった論理が導かれます。
 従って、この法確証論からする死刑存置論は、被害者なき犯罪や殺人以外の犯罪を含めた全面的かつ恒久的な死刑存置論として展開され、最も強硬な死刑存置論を形成することになりがちです。そういう点からも、一定の柔軟さを残す大衆レベルの死刑存置論からは乖離しています。
 こうした法確証論はどんなにロジカルに見えても、しょせんは内容空疎な観念論にすぎないのですが、ある意味ではこうした観念論こそ法律家の間では身につけるべき職業的スキルとなるのですから、法確証論的死刑存置論も法律家とともになお権威を保ち続けるでしょう。
 ちなみに、かのヘーゲルは、刑罰は犯罪者にとって痛みとして感じられるようなものでなければならず、死刑に値するような殺人が行われたとしても、殺人犯が厭世気分から、死の準備をしたうえで殺人を実行したような場合、「殺人者の意志はすでに人生の外へと出ていて、死刑も痛みとは感じられないから」死刑を懲役刑に代えるのがよいと興味深い指摘もしています。要するに、例の“死刑願望者”のような者は死刑を科しても無意味であるから、懲役刑のほうがよいと言うのです。
 してみると、ヘーゲルは少なくともゴリゴリの法確証論者とは一味違っていたと見てよいのではないでしょうか。

 ところで、法確証論と関連して、法務大臣が個人的な信条から、法律上法務大臣の職務として定められている死刑執行命令を出さないことは許されるのかということが実際問題として論争の的とされてきました。
 これは、すでに第2話でも見たように、日本の刑事訴訟法では、死刑執行命令が法務大臣一人の手に委ねられていることから生じてくる大きな問題です。
 この点、過去の法務大臣の中には、仏教などの信仰に基づいて死刑執行命令を拒否した人がいると言われています。例の三年四ヶ月間の死刑執行休止期間中に在任した大臣の中にもそのような人がいたようです。
 法確証論からすれば、死刑執行は死刑制度が存在する限り、絶対の義務であって、法務大臣が個人的な信条から執行をしないことは職務怠慢として強い非難に値することになるのでしょう。事実、93年3月に死刑執行再開を主導した前出後藤田大臣は、死刑執行の空白を作り出した前任者たちを非難し、「死刑執行をするつもりのない人は法務大臣に就任すべきでない」とまで断言したものです。
 しかし、大臣のような政治職公務員にあっても、憲法19条の思想・良心の自由は当然保障されるのですから、大臣といえども自らの信条(信仰を含む)に反する職務を強制されるいわれはありません。従って、「死刑執行命令を出さない者は法務大臣に就任すべきではない」という後藤田発言は憲法無視の独断論です。
 当然ながら、法務大臣は死刑執行だけを職務とする死刑執行役人ではないのであり、死刑執行命令は法務大臣の数ある職務の一つにすぎず、それもどちらかといえば例外的な職務なのですから、それを信条の上から拒否することが法務大臣としての適格性を全面的に失わせるとはとうてい言えません。
 ただし、法務大臣は国務大臣の一人として、その職権の行使・不行使に関する説明責任を負っています。従って、在任中、死刑執行命令を出すつもりがないなら、その理由を説明すべき責任があります。そのときに自己の信条を理由とするなら、憲法上の根拠とともにその旨を明示すればよいのです。
 そういう観点からすると、従来の法務大臣の中には、死刑執行命令を出さない理由を明確にしないまま去っていった人もいますが、このような「沈黙」はいささか問題でしょう。この点、一般市民であれば自己の信条を公にしない「沈黙の自由」も思想・良心の自由の一内容として保障されているわけですが、国務大臣のような政治職にあっては、「沈黙の自由」は公的な説明責任の観点から一定の制約を免れないということになるでしょう。

 とはいえ、法務大臣が個人的な信条から死刑執行命令を出さずに去っていくことには、死刑廃止論の立場からも一つ懸念すべき点があるのです。それは、法務大臣が死刑執行命令を出さずにいると、その間にも死刑確定者は累積・滞留していため、次の大臣が積極的な死刑存置論者であったりすると、まるで“在庫一掃”とばかりに大量執行が断行されるという事態もあり得るという懸念です。実際、先の後藤田大臣による死刑執行再開時をはじめ、過去に幾度かそういうことが起きています。
 もちろん、そのように突如として死刑執行件数を急増させるようなやり方も、大臣の恣意的な権力行使として批判されるべきですが、日本の死刑が法確証イデオロギーで固まる法務省を舞台としている限り、こうした事態は避けられないでしょう。
 そこで、死刑廃止の考えを持つ法務大臣であれば、単に個人的に執行命令を拒否するにとどまらず、最低限、死刑執行モラトリアムを公式に提起すべきでしょうし、それこそ近時何かと喧伝される「政治主導」の真骨頂ではないでしょうか。
 この点で、日本の法律は死刑執行を官僚としての検察官のトップである検事総長でなく、政治家としての国務大臣である法務大臣の権限に委ねているということの意味が重要です。
 この権限は実際、当事者からの異議申し立ても許されず、司法的に何らコントロールされることのないスーパー権力であって、濫用の危険のある制度として、海外からも驚きをもって見られることがあるようです。
 ただ、見方を変えれば、このことは死刑を自動的・機械的に執行するのではなく、政治家としての法務大臣の高度な政治判断に立って合理的な理由があれば死刑執行を凍結することをも容認する趣旨と考えることができるのです。例えば、国連による死刑廃止の人権勧告や全世界における全面的死刑執行停止を求める国連総会決議を受けて、国内における死刑執行モラトリアムを決断するような場合です。
 こうした場合、法務大臣は内閣の一員として、総理大臣をはじめとする内閣の了解を得たうえで、死刑執行停止の理由を公に説明する責任を負うことはもちろんです。このような形の法律に基づかない死刑執行モラトリアムには法的拘束力はありませんが、少なくとも同じ内閣で法務大臣の交代があっても継続されるのが普通でしょうし、内閣が交代しても同一の政権政党であれば次の内閣にも継承されることが期待でき、先に示したような突然の大量執行という事態はとりあえず避けられるのです。
 このようなけじめを持った死刑執行停止措置であれば、法務大臣の権限の中に黙示的ではあれ含み込まれているものと解し得るわけです。

 こうして、憲法・法律の趣旨をよくよく検討していけば、死刑執行は法確証論が要求するほどに有無を言わさぬ絶対的なものではないことがおわかりになるでしょう。

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