ザ・コミュニスト

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国家は自身を守る

2014-07-01 | 時評

政府与党は集団的自衛権を解禁するに当たり、「国民の保護」を特大強調している。こういう美辞で憲法的なごり押しを正当化してみせようという策であろう。

しかし、国家は国民でなく、国家自身を守る。だから「民衛権」とはいわず、「自衛権」という。国家が守るのは国家自身であって、国民ではないということは、歴史的な経験則である。逆に言えば、必要とあれば国家は国民を見棄てるのだ。

国家が国家自身を守るという再帰的政策の象徴が、国家安保である。そこで想定されている有事とは、何よりも国家の一大事であって、国民の保護は二の次、三の次の関心にすぎない。

ただ、ここにはからくりがある。国家なるモノは実態のない観念にすぎないから、国家を守るとは、国家という機構を掌握し、そこから様々な利益を直接に吸い上げている面々を守るということ、要するに国のお偉方たちの利益をお守りするということが、安保の真意なのだ。

従って、集団的自衛権―その正体はほぼ「日米共同自衛権」―とは、複数国家のお偉方の利益を集団で守るための武力行使、戦争発動のことだ。

この点、戦後日本はある時期まで、同盟主・米国の庇護下で「平和ボケ」と自嘲されるほどに安保は手薄にしてきたのだが、近年より積極的な軍事協力を求める米国に促され、国家安保を強化しようという逆流が顕著になっている。国家安全保障会議、国家秘密保護法、そして集団的自衛権と安保にのめり込む安倍政権はその流れを決定づける政権である。

ある意味では、国家が国家らしくなってきたということでもある。反面で手薄になるのは、公共交通機関の安全のような日常的な社会安全政策である。

南北分断対峙の現実から建国以来安保優先体制を採ってきた韓国で今年4月に起きたフェリー転覆沈没事故は、国民より国家を守る国家の本質を如実に教える事例である。対岸の火事ではない。

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