一 商品の支配(1)
資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は、一つの「巨大な商品の集まり」として現れ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現れる。
『資本論』第一巻(以下、単に「第x巻」という)の出だしのこの一句は、当時としては比喩的な名言であったが、資本主義が爛熟期を迎えた現時点では、ごく常識にすぎない。資本主義が隆盛な社会は商品で溢れかえっており、商品の品揃えが豊かさの尺度となっている。
マルクスの時代には、商品の販売所といえば、まだ伝統的な個人商店が中心であったが、今や資本主義が発達した諸国では、大量の商品を集積させた一つの倉庫のような量販店が至るところに林立し、まさに「巨大な商品の集まり」が比喩でなくなっている時勢である。
机はやはり材木であり、ありふれた感覚的なモノである。ところが、机が商品として現れるやいなや、それは一つの感覚的であると同時に超感覚的であるものになってしまうのである。
マルクスは、商品について総論的に分析した第一巻第一章の末尾を「商品の呪物的性格とその秘密」と題する経済人類学的な叙述の節で結んでいる。その冒頭で挙げられる例がこれである。商品を目にしたときに、その元の素材の姿を想像したり、それを職人や労働者が机に加工・製作している姿を想像したりすることはまずない。まるで、机が自然にそこに生じたかのように映じ、他の類似商品と比較したり、同一商品の価格だけを比較したりする。
マルクスはそのような商品の持つ不可思議な超感覚性を呪物崇拝にたとえている。呪物崇拝は、太古の人類が特定の自然物に宗教的な意味を付与して崇める風習であったが、資本主義世界では人間の労働の産物である商品が崇拝の対象となる。
商品形態は人間にたいして人間自身の労働の社会的性格を、労働生産物そのものの対象的性格として反映させ、これらの物の社会的な自然属性として反映させ、したがってまた、総労働にたいする生産者たちの社会的関係をも、かれらの外に存在する諸対象の社会的関係として反映させるということである。
こうした商品フェティシズム現象は、余力を超えて不必要な商品まで偏執的に買い込む買物依存症のような精神的疾患を社会問題化させるまでになっている。
個人による大量の商品取得を可能としているのが、取得に際して交換に供せられる貨幣という手段である。もし物々交換社会であれば、交換に必要な対応商品の準備が必要なため、大量の商品取得は困難である。貨幣はそれ自体専ら交換手段として使用される簡便な商品であり、しかも現代ではクレジットや電子マネーのような非現金決済システムの発達により、商品の取得はよりいっそう簡便化されている。マルクスは、こうした貨幣こそ、商品フェティシズムの直接的契機とみなしていた。
商品形態のこの完成形態―貨幣形態―こそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである。