小序
拙論『共産論』は、未来における共産主義社会の実像を筆者なりに構想する試みであったが、現在はそのずっと手前の段階にある。これまで『共産論』その他でも言及してきたように、現時点は20余年前のソ連邦解体以後の世界の只中にあり、国内及び国際通念上は「資本主義の勝利」の時代とみなされている。
たしかに表面上、資本主義は世界に拡散し、この世の春を謳歌する爛熟期にあるように見える。しかし、すべての事物においてそうであるように、爛熟は終わりの始まりでもある。そうした意味で、資本主義の爛熟期は資本主義の終わりの始まり、つまり晩期資本主義と認識される。
もっとも、晩期とはいえ、直ちに破局・終焉を迎えるとは限らない。晩期が意外に長く持続するということもあり得る。晩期がどれくらい持続するかという占いは別としても、晩期資本主義がいったいどのような実態を持っているのかについて解析しておくことは、未来社会を単に空想するのではなく、現存社会に身を置きつつ、未来社会を具体的に構想するうえで有益なことである。本連載は、そうした現在進行形の資本主義の解析を中心課題とする。
その際、カール・マルクスの『資本論』を参照項とする。同書は周知のとおり、マルクス最大の主著とみなされるものであるが、近年はいわゆるマルクス主義の凋落とともに顧みられることも少なくなり、放置されている。しかし、これまでのところ、資本主義市場経済の構造について、その形成史に遡及しつつ、これほど網羅的かつ分析的に解明した著作はマルクスに批判的な論者のものを含め、筆者の知る限りいまだ存在していないため、現代資本主義を解析するに際しても参照項としての意義を失ってはいない。
ただし、同書で解析の対象となっているのは、著者マルクスが生きていた19世紀西欧の資本主義である。つまり、それは勃興期の、まだ若く地域的にも限られた資本主義であった。そうした時代的制約から、現代の爛熟期に達した資本主義の参照項としては限界がある。しかし、『資本論』で剔出された資本主義の諸特徴が現在どのように現象しているか、また変容あるいは消失しているかを解析することは、晩期資本主義の実態を把握するうえで有意義である。
本連載は、そうした意味で、古典的な『資本論』を現代的に活用し直そうとする小さな試みの一つであり、それ以上でもそれ以下でもない。同時に、これは先に改訂版を公開した拙論『共産論』の独立した序論としての意義を持つものでもある。
※『資本論』の邦訳にはいくつかの版があるが、ここでは比較的ポピュラーな大月書店国民文庫版を使用する(一部訳文を変更する)。