ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

晩期資本論(連載第48回)

2015-06-03 | 〆晩期資本論

十 剰余価値から利潤へ(7)

商品と貨幣とはどちらも交換価値と使用価値との統一物だとはいえ、すでに見たように(第一部第一章第三節)、売買ではこの二つの規定が二つの極に対極的に分かれて、商品(売り手)は使用価値を代表し、貨幣(買い手)は交換価値を代表することになる。商品が使用価値をもっており、したがってある社会的欲望をみたすということは、売りの一方の前提だった。他方の前提は、商品に含まれている労働量は社会的に必要な労働を表わしており、したがって商品の個別的価値(および、この前提のもとでは同じものであるが、販売価格)は商品の社会的価値と一致するということだった。

 マルクスは、ここで第一巻の原理に立ち戻りつつ、改めて事例をあげて考察し直すのであるが、最後にまとめて、「一定の物品の生産に振り向けられる社会的労働の範囲が、みたされるべき社会的欲望の範囲に適合しており、したがって生産される商品量が不変な需要のもとでの再生産の普通の基準に適合しているならば、この商品はその市場価値で売られる。諸商品の価値どおりの交換または販売は、合理的なものであり、諸商品の均衡の自然的な法則である。」という法則を立てている。しかし―

一方の、ある社会的物品に費やされる社会的労働の総量、すなわち社会がその総労働力のうちからこの物品の生産に振り向ける可除部分、つまりこの物品の生産が総生産のなかで占める範囲と、他方の、社会がこの一定の物品によってみたされる欲望の充足を必要とする範囲のあいだには、少しも必然的な関連はないのであって、ただ偶然的な関連があるのみである。

 このように、現実の市場経済で原理的な価値法則が成立しないことは、マルクス自身、認めざるを得ない。興味深いことに、このすぐ後、マルクスはカッコ付き付言の形で、「ただ生産が社会の現実の予定的統制のもとにある場合にだけ、社会は、一定の物品の生産に振り向けられる社会的労働時間の範囲とこの物品によってみたされるべき社会的欲望の範囲とのあいだの関連をつくりだすのである。」と、共産主義的生産様式では価値法則が現実的にも成立することを指摘しているが、この付言からすると、価値法則は『資本論』ならぬ『共産論』で説かれるべき経済法則ではないかとさえ思えてくる。
 結局、資本主義的生産様式において、価値法則は一つの原理的なモデルであって、現実の市場経済は、その法則からの偏差的状況が常態化している。よって、「この法則(価値法則)から出発して偏差を説明するべきであって、逆に偏差から法則そのものを説明してはならないのである。」とも釘が刺される。

需要と供給とは現実にはけっして一致しない。または、もし一致するとすれば、それは偶然であり、したがって科学的にはゼロとするべきであり、起きないものとみなすべきである。ところが、経済学では需要と供給が一致すると想定されるのである。なぜか?現象をその合法則的な姿、その概念に一致する姿で考察するためである。

 ここで批判されている現象を法則に合わせて説明しようとする本末転倒の「経済学」とは古典派経済学、とりわけ需要と供給の一致法則を説いたセイを念頭に置いた批判である。マルクスも需要供給関係を無視するものではないが、「需要供給関係は、一方ではただ市場価値からの市場価格の偏差を説明するだけであり、また他方ではただこの偏差の解消への、すなわち需要供給関係の作用の解消への傾向を説明するだけである。」と言われるように、マルクスにとっての需要供給関係は、価値法則からの偏差をもたらす要因でしかない。

・・・資本は、利潤率の低い部面から去って、より高い利潤をあげる別の部面に移っていく。このような不断の出入りによって、一口に言えば、利潤率があちらで下がったりこちらで上がったりするのにつれて資本がいろいろな部面に配分されるということによって、資本は、生産部面が違っても平均利潤が同じになるような、したがって価値が生産価格に転化するような需要供給関係をつくりだすのである。所与の国民的社会で資本主義の発展度が高ければ高いほど、すなわちその国の状態が資本主義的生産様式に適していればいるほど、資本は多かれ少なかれこのような平均化をなしとげるのである。

 ここで、マルクスは再び中位収斂化傾向を指摘し、こうした「不断の不均衡の不断の平均化」は①資本の可動性と②労働力移動の迅速性によりますます速まるとして、①と②の現象の前提を具体的に列挙している。
 すなわち①の前提としては、完全な商業の自由、独占の排除、信用制度の発達、資本家のもとへの種々の生産部面の従属、人口密度の高度化、②の前提としては、労働者の職域的・地理的移動制限法の撤廃、労働内容に対する労働者の無関心、単純労働への還元、労働者間の職業的偏見の消失、資本主義的生産様式への労働者の従属が挙げられている。
 こうした諸前提がすべて充足されているのは、まさに現代の晩期資本主義である。ということは、現代資本主義においてこそ、マルクスの言う平均化傾向は高度化していることになる。

平均価値での、すなわち両極の中間にある大量の商品の中位価値での商品の供給が普通の需要をみたす場合には、市場価値よりも低い個別的価値をもつ商品は特別剰余価値または超過利潤を実現するが、市場価値よりも高い個別的価値をもつ商品はそれ自身が含んでいる剰余価値の一部分を実現することができないのである。

 中位収斂化の中で、資本家が市場価値より低い個別的価値をもつ商品を市場価値で販売したときには、特別剰余価値としての超過利潤を取得することができる。これが優良資本の秘訣である。かくして、「市場価値(これについて述べたことは、必要な限定を加えれば、生産価格にもあてはまる)は、それぞれ特定の生産部面で最良の条件のもとで生産する人々の超過利潤を含んでいる」。

☆小括☆
以上、十では『資本論』第三巻の前提部に相当する第一篇「剰余価値の利潤への転化」及び第二篇「利潤の平均利潤への転化」の両篇を併せて、剰余価値と並ぶ『資本論』におけるキータームとなる利潤(率)の概念を見た。その立論は不安定かつ錯綜しているため、かつてマルクス経済学では種々の弥縫的な補足理論が提唱されてきたが、マルクス経済学の概説を目的としていない本連載では立ち入ることをしなかった。

コメント