第五章 アジア的奴隷制の諸相
中国の奴隷制②
唐が滅亡した後、いわゆる五代十国の混乱期を収拾した宋は軍閥出自ながらある意味で「リベラル」な政策を展開したため、奴隷の個別的解放と階級上昇もある程度可能になった。また律令制の解体に伴い、官奴婢は廃止されたが、良賤制は残存した。
こうした宋の限定改革的な気風も、王朝の脆弱さゆえ、東北女真族の侵攻による金王朝の樹立により中断された。華北を征服・支配した金は、官営妓院として洗衣院を設置し、宋の皇后や皇女を筆頭とする身分不問の宋女性多数を金銭による等級付きで洗衣院に送り、性的奉仕を強制させる性奴隷化を大々的に実行した。
続いて金と南宋双方を滅ぼして全土を征服したモンゴル帝国(元)は、征服過程で多数の漢族を奴隷化し、奴隷制を積極的に活用したため、国が直接所有する官奴婢も復活した。
また高麗を間接支配するようになると、高麗女性を貢女として献上させた。貢女=性奴隷ではなかったが、性奴隷の性格は否定できない。なお、例外中の例外として、高麗貢女出自の宮女から昇進した奇皇后(夫は元朝最後の皇帝トゴン・テムル)のような高位者も輩出している。
元を滅ぼした明は中国史上初めて政策的に奴隷制廃止を追求した体制であり、初代の洪武帝朱元璋は奴隷を良民に転換する法律を公布した。しかし歴代王朝を越えて歴史的に根付いた慣習を変革することは困難であり、明中期以降は貧困のため自ら奴隷に身売りする慣習も現れた。
明末期の17世紀には奴隷反乱が相次いたことから、家内奴隷数の上限を設け、奴隷所有者に重税を課す妥協策を打ったが、効果を見るまでもなく、明は再興した女真族系の清によって滅ぼされた。清は当初、奴隷制廃止には消極的で、征服した朝鮮から数十万の捕虜を奴隷化した。
しかし中原で支配を確立するにつれて改革的となり、康煕帝の時代から漸次奴隷制廃止が進み、続く雍正帝は正式に奴隷制度及び奴婢制度の廃止を断行した。しかし19世紀にキリスト教が広がると、警戒した清朝はキリスト教弾圧政策の一環として、棄教しないキリスト教徒を西域の新疆へ送還し、現地のイスラーム系有力者に奴隷として売却する制裁措置を採った。
ちなみにイスラーム系の新疆は清朝領土に含まれながらも自治的な藩部体制の下、イスラーム的慣習が維持されたため、18世紀末に時の乾隆帝が新疆における奴隷制廃止を宣言したにもかかわらず、イスラーム法に則った奴隷売買が行なわれていた。
清朝の奴隷制廃止は末期1909年の法律で明記されたが、不法な奴隷慣習―特に私奴婢―は辛亥革命後中華民国時代も存続し、20世紀半ばの共産党支配体制樹立後の社会革命によってようやく姿を消したものと考えられる。