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ザ・コミュニスト

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奴隷の世界歴史(連載第37回)

2017-12-18 | 〆奴隷の世界歴史

第五章 アジア的奴隷制の諸相

日本の奴隷制
 日本の歴史上、少なくとも記録に現れる奴隷制は弥生時代から存在しており、中国史書には当時の倭の小国が中国皇帝にもたらした奴隷=生口に関する記述が見られる。また『魏志倭人伝』では邪馬台国の卑弥呼女王の王宮には婢千人が奉仕していることが記されている。
 首長制の古墳時代、各地域の首長は私有民として奴隷を所有しており、墳丘墓の築造に当たっても奴隷労働力が動員されたと推定できるが、記録的な裏付けはない。ただ、ヤマト王権の集権支配が強まってもなお地方首長出自の各豪族らは部曲のような形態で配下の私有民を保持していたことからみて、日本の私有奴隷制の歴史は相当に長いと見られる。
 こうした古代奴隷制社会が再編されるのは7世紀以降、中国式の律令制が導入され、良賤制が定着してからである。日本型良賤制の特質は階級が、、家人、、の五種に明別されたこと――である。このうち最下層を占める公私のは売買の対象とされ、実質上奴隷であった。
 ただし、には良民の三分の一ながら口分田が支給されたほか、解放されて良民となる可能性があった。また良賤間の通婚も次第に自由化され、通婚によってもうけた子は良民とされるなど形骸化し、最終的には平安時代の907年に廃止された。
 これ以後、中近世の日本では明確に奴隷身分に分類できる階層は見られなくなるが、人身売買の慣習は武家社会ではむしろ強まった。売買された男女は、主に下人として有力家で家内労働に従事した。中世には貨幣経済の発達に伴い、人身売買が一つの商行為として確立されたのに対し、鎌倉幕府は人身売買を原則として禁じたが、飢饉に際しては例外的に許容したため、拡大解釈され、貧困から自ら身売りする者も跡を絶たなかった。
 戦国時代には、勝者側将兵が敗者の領地で人や財貨を略奪する乱妨取りと呼ばれる粗野な風習が普及し、このうち人狩りの部分に関しては人身売買の軍事化と言うべき事象が生じた。乱妨取りで狩られた一部の日本人が大航海時代のポルトガルを通じて奴隷として海外に売られていたことは以前にも触れた。
 江戸幕府の「鎖国」政策はこうした日本人の奴隷化流出を阻止する役割を果たした。幕府は同時に、国内的にも人身売買を取り締まったが、年貢上納を目的とした子女の売買は例外とする抜け道を作ったため、女性の人身売買は残存した。
 これは時を同じくして発達してきた遊郭制度と即座に結びつき、人身売買で売られた農民の子女は遊郭で年季奉公する遊女となることが多かった。幕府は公認遊郭以外での私娼を禁じたが、取締りは行き届かず、私娼を含めれば膨大な数の女性が性奴隷化されていたと見られる。このような性奴隷制は明治政府による1872年の芸娼妓解放令によってひとまず法律上は解消されることとなった。

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