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貨幣経済史黒書(連載第5回)

2017-12-24 | 〆貨幣経済史黒書

File4:モンゴル帝国と紙幣インフレーション

 現代の貨幣経済においては主軸的なアイテムとなっている紙幣を世界史上初めて通貨として確立したのはモンゴル帝国であった。もっとも、厳密に言えば史上初めて紙幣を発明したのはモンゴルが最終的に打倒した漢族系の宋王朝であった。
 宋は銅貨の素材となる銅不足から、中国で従来手形として使用されてきた交子と呼ばれる書面を貨幣として使用する政策を導入した。ただし、宋時代の交子は主として四川地方の地域通貨として、かつ鉄貨との兌換という場所及び目的が限定された通貨として機能したにとどまる。
 これに対し、宋を駆逐して12世紀から13世紀にかけて華北を支配した女真族系の金王朝は、支配領域とした華北で銅が不足していたことから、交子制度を参考にする形で新たに紙幣を発行し、交鈔と命名したのであった。
 続いて、金及び宋を打倒して中国全土に及ぶ元王朝を樹立したモンゴル帝国は、金王朝の諸制度の多くを継承し、その一環として交鈔制度も継承した。中でも2代ハーンのオゴデイに使えた契丹人出自の高級官僚・耶律楚材が交鈔制度の確立に寄与した。
 紙幣は鋳造貨幣に比べて製造が簡単であることから、当然にも濫発されやすいという欠陥を抱えている。実際、金王朝の交鈔も増発によるインフレーションが王朝衰退の一因となったほどであった。そうした先例を踏まえ、耶律楚材は発行限度を厳しく制限し、財政規律に留意したのであった。
 元の交鈔は帝国全盛期を築いたクビライ・ハーンの時に正式に統一通貨として確立されたが、当時の交鈔は銅貨の代替貨幣という位置づけであり、鋳造貨幣から独立した貨幣ではないなど、現代の紙幣とは異なる幼稚性も残されていた。
 そのうえ中国全土を支配し、かつベトナムや日本にまで遠征をしかけるようになると、当然政府支出は膨張し、耶律楚材の財政規律策は反故にされるようなった。クビライの時代以降、交鈔の発行額は右肩上がりとなり、塩の専売特許をも財源とするべく、塩との引換券の機能も追加されるなど、交鈔は量・質両面で膨張した。
 結果、交鈔インフレーションが亢進し、定在化するようになる。そこで7代カイシャンは新紙幣として至大銀鈔を発行して通貨切り下げによる劇薬的なインフレ対策を断行するが、かえって経済混乱を招いた。その後も、元朝末期にかけて、交鈔は改廃を繰り返し、混乱に拍車をかけた。
 ちなみに、イランに本拠を置いたモンゴルの派生王朝であるイルハン朝でも、2代君主ゲイハトゥがクビライ側近にして使者として派遣されてきたモンゴル貴族プーラードの献策により、西アジアでは初となる紙幣・チャーウ(鈔)を導入するも、財政規律を無視したため、たちまちハイパー・インフレを引き起こし、わずか二か月で廃止という大失態を演じた。
 本家の元王朝でも、実質的に最後の元皇帝となった15代トゴン・テムルの時代に交鈔は廃止され、再び銅貨に一本化されたのである。こうして、貨幣史上においては画期的な発明であった紙幣はいったん歴史から姿を消す。
 モンゴル帝国の紙幣インフレは財政規律の欠如とともに、政府から独立に通貨調整を行なう中央銀行の制度を知らなかったことにもよるが、その点、同時代にはまだ紙幣制度を知らなかった西欧においてずっと後に発祥する中央銀行は紙幣制度のより洗練された運用に資することになるであろう。

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